「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『伝言』・その一


 あなたの言葉は、僕にはとどかない。
脩一は確かにあのとき、奈美にそう伝えた。二人が待ち合わせた喫茶店でだ。大きな杭で打ち抜いたような細工の施された赤銅色の傘から、白熱灯が光を漏らしている。両手を軽くテーブルに置き、彼女が左奥で待っていると、脩一は俯き加減で扉を開け、姿をあらわした。それは彼の癖だ。奈美は軽く首をそちらへ傾け、迎えた。
 脩一は奈美と挨拶は交わさず、椅子に坐った後も店員がくるのを落ち着かぬふうに待った。肩から力がぬけずそれがかえって微かなゆれを起こした。表情も硬いままで、意識すればするほど瞳の下がひくひくと痙攣する。テーブルに隠れて見えない膝から下が細かくふるえ、どうすることもできなかった。
 店員がきたとき用意した言葉が出ず、彼はもどかしげに眉間に力を入れた。奈美がコーヒーを二つ注文した。
ふだんとのあまりの様子の違いに慌てた彼女は、さっそく呼び出した要件を切り出した。
「こないだは、ごめんなさい。いきなりあんなものが出てきて。あなたには関係なかったわよね。私があんなことをしようって言いだしたものだから。あとからとても申し訳ないことをしたなと思って、とにかく謝ろうと……」
 脩一は、言葉のひとつひとつがうまく聞き取れず、顳顬をぴくつかせた。
「どうしたの? ずいぶん疲れているようだし。何かあったんだったら、話してくれない」
 脩一は黙っていた。頬は石膏のように血の気が失せ、唇は寒気でもあるのか紫がかっている。視線は頑なに目の前の一点を見つめ、奈美からすれば全体に柔らかな生きた感触といったものがなかった。
「熱でもあるんじゃないの」
 一瞬、脩一は顔を上げ、奈美を生気のある眼で見た。彼女もやっといつもの脩一にもどったと、自分の思い過ごしにホッとした。しかしそれは彼の次の行動で簡単に打ち砕かれた。
脩一はゆっくりとジャンバーのポケットから二センチほどの厚みの一枚一枚が容易に切り離せるメモ用紙を取り出した。一番上の真っ白な紙に黒のボールペンで書き始めた。奈美は呆気に取られていた。
早くもなく遅くもない、彼の微かな呼吸とともにすすむペン先を彼女はじっと見つめ、すべてが終わると、紙切れが乾いた音を立て、木目をすべるように渡された。脩一の右上がりの文字が僅かにぶれている。それにはこう書かれてあった。
 あなたの言葉は、僕にはとどかない。
 しかもそれに書き足すように、もう一枚が添えられた。
 あなたとは話せない。
 奈美は、最初冗談かと思い、その願望も込め笑みをつくった。それでも、知らず知らず頬は引き攣り、詰問する口調になった。
「話せないって、嘘でしょう。二日前に会ったばかりなのに。やっぱり、私のことを怒ってるんだわ」
彼女が一気にまくしたてる裏には、脩一の神経を刺激して、しゃべりだすきっかけをつくろうという思惑があった。言葉の出るタイミングさえつかめば、こんな芝居はいっぺんに崩れてしまう。奈美はあれこれ考え、片方では冷静さを取り戻そうと必死になっていた。
脩一はまたメモ用紙に書き始めた。
 あなたとだけは、話せない。
 そんな馬鹿な。奈美の苛立ちは頂点に達っさんばかりだった。なぜ、誠意をもって謝罪しようとしているのに、こんな目に合わなくてはいけないのか。これが冗談だとすれば、許せるものじゃない。しかし、だとしたらそんな取り返しのつかぬことを脩一が平気でするだろうか。奈美は彼の顔を改めてじっと見た。両瞼をかっと見開き、肩先の揺れは消え、微動だせず真剣そのものだ。ときおり眉を細め、歯がゆいように唇を噛み暗澹とした表情になっている。
 奈美は彼の真意がつかめず、湧き上がってくる不可解さをどうすることもできなかった。質問は当然のようにつづいた。
 「どうして、私とだけ話せないの?」
 彼がまたペンを持った。紙に向かい肘を動かすたびに、乾いた髪が数本、額から垂れ、瞼のあたりへ影をつくった。
あなたの心に、僕の言葉はとどかない。だから話せない。
そんなこと……。奈美はつぎの言葉をためらった。心に言葉をとどかせるなんて……。彼女の方こそ、自分自身の言葉を失いかかろうとしていた。
 奈美は目の前のメモの紙切れを手にしたまま、ならば、こうやって自分に会い、書いて伝えている意味がどこにあるのか、恐る恐る訊ねてみた。
 脩一の表情が一層俯き、苦悶の色が見受けられた。
 それでも彼は、しばらくして書き始めた。
 僕にもわからない。でも、あなたには会いたい。どうでもいいわけで はない。
 奈美には、矛盾と葛藤に満ちていながらもその文章は救いだった。彼にとって奈美がまったく興味を示さぬ対象ではなく、それなりの理解を共有したい相手であるということは、二人の関係を辛うじてつなぎとめるものだった。
 まもなくコーヒーがやってきた。脩一は口をつけず、奈美が一人、気分を落ち着かせるためカップを手にとった。脩一は返事をいつでも書けるように、メモ用紙をテーブルの真ん中寄りに置いた。
 奈美は、自分があれこれ見境もなく喋っては、そのたびに向こうも紙に書かねばならぬ労苦を思い、できるだけ気持ちを制御し、昔話の類や記憶の断片を語るにとどめた。そのうちに彼女自身も、確かに過去に似たことが、ある人物との間にあったことを思い出した。それは向こうに原因があったり、彼女に些細なきっかけがあったりもした。奈美の発した何気ない言葉が、予想外に相手を傷つけたこともあった。そんなとき奈美は、今と同じように歩み寄り、自分の気持ちを丁寧に説明することで修復を試みた。
 ならば、今、この状況をつくっている原因はどこにあるのか。奈美にある不安が訪れた。もしかして…。だが、この場ですぐに、表に出す気持ちにはなれなかった。
 睫毛が見える。数本の髪のかかった脩一の睫毛が……。
 そもそも、僕たち、めぐり会わない方がよかったんじゃないのかな。
 脩一は、二日目、奈美にそうつぶやいた。
 この世には出くわすべき人間とそうでない人間とがいる。秒針はいつも長針や短針とそれぞれ違う動きをするが、ときに何かの拍子で同じ位置で止まることがある。電池切れや故障といった偶然や必然が重なり、各々の意志とは関係なく、突然に静止してしまう。もちろん、どこでどの針と止まるかが大きな運命の別れ目だが、まれに、三本同時に、止まることもありうる。ただしそのときは、十二時という特別な位置しか用意されていない。
 脩一と奈美が出会ったのも、そこに脩一の父、宗治の存在を無視することはできない。彼が小学校一年に上がるとき、家を出て行った父親、その三人が十二時にふさわしいかどうかはわからぬが、確かに彼らにとっては特別な時間と場所で出会ったことになる。

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