「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『伝言』・その三

 三
「自分で決めなさい。どうするかは」
 警察から宗治の死を知らせる連絡がとどき、脩一宛の遺書が残っていることがわかったとき、琴絵はまったく動じた素振りを示さず、電話口でそう告げた。
「あなたも二十六になったんだから、自分で行って確かめてくるのね」
 警察の安置所は、一階奥の冷えきった廊下の突き当たりにあった。
扉を開けると、白布が被せられた遺体の横に、すでに一人、脩一より五つほど年上ではと思える女性が立っていた。脩一は、形ばかり御辞儀をし、薄いビニールシートの敷かれた安置台に近づいた。
 係りの職員が布をめくると、土気色をした物言わぬ宗治の顔があった。浮腫みのせいか脩一が覚えている顔より、ややふっくらとしているように思える。髪の毛にはずいぶん白髪が増えていた。両目を閉じているので二重の大きな眼差しはわからないが、眼尻から頬、口元にかけての輪郭が確かに宗治であることは間違いない。そう思ったとたん、十数年前の山小屋での風景が甦り、込みあげてくるものがあったが、脩一はじっと耐えていた。
「父です」
 精一杯、声を振り絞り、職員に答えた。
「入浴中に脳梗塞をおこされたようですね。水はさほど飲んではおられません。ただ、血液中から多量のアルコールが検出されました」
 脩一は宗治の血管の内部を思い浮かべた。醸造された酒の成分が淀みながら、ふつふつと醗酵し細い管の中を押し流されていく。やがて何の前ぶれもなく凝固した血栓によって生命の持続に終止符が打たれると、熱は冷め、細胞が壊れ始める情景を虚しく想像していた。
「それと、体が硬直してしまっていて」
 我にかえりハッとして、再び遺体に目を向けた。
 確かに膝の辺りが九の字に折れ曲がり、布が小山のように盛り上がっている。ユニットの小さな浴槽にちょうど収まる格好だ。じっと見ているとさらに克明に死の直前の風景が甦るようで、いたたまれなくなり、それでも数秒、対峙し、もう充分というようにまた軽くお辞儀すると、了解したように白布が乾いた音を立て被せられた。
「自殺、ですか」
「それは、なんとも言えません。ただ、飲酒後のこういった事故はよくあることですし、薬物反応も出てこなかったことからすれば、きわめて可能性は薄いですね。でも死後二日で発見されたのは幸運ですよ。腐敗もさほどすすんでいませんでしたし」
「だれが見つけたんですか」
 職員はそこでしばらく間を置き、「麓の方がちょうど散歩されていたんです」と事務的に答えた。脩一はもう少しつっこみたかったが、今さら詮索してもそれ以上のことはかえってこない気がし、引き込めた。
「ああ、それと遺書ですが、日付を見るとずいぶん前に書かれているようですね。現場検証のとき、台所の引き出しから出てきました」
予断は挟ませないとでもいうようなきっぱりとした口調だ。
「それでは、事務所で持ち物と遺体の引き取りの手続きをしていただいてよろしいですか」
修一が、その声に従い前へすすむと、隣にいた女性もいっしょについてきた。
訝しく思いつつも、まだ話しかけるには早すぎるような気がし、脩一は様子をうかがっていた。
接客用のソファに座り、二人は、まるで息を合わせたように、そそくさとお茶を用意する女性職員をちらりと見た。
「ちょっとお待ちください」
担当の職員が保管庫に出掛けた隙を見計らうように、最初に尋ねてきたのは、女性の方だった。
「もしかして、脩一さん、ですか?」
「……」
「私、吉野明子の娘の奈美と言います」
 相手の口にした母親の名前を聞いたとたん、脩一のふさいでいた心は一瞬どよめき、すぐに落ち込んだ気になった。宗治が付き合っていた女性、仕事もやめ、家族とも離れ、あの小さな山小屋へ出て行くきっかけをつくった女性、それが吉野明子だった。
脩一は、いつのまにか奈美を、明子本人であるかのようにじっと見つめていた。
 職員が差し出した遺書は、一枚のB4の白い用紙に、数行、太めの文字で書かれてあった。楽譜を切り張りするのに使っていたのと同じだ。正式に書いたというより、練習のため下書きしたふうでもある。
葬儀は一切不要であること、自分の遺体の処理は、銀行に預けてある金を使ってやってほしいことが書かれてあった。渡されたものには同じ引き出しに入っていた通帳もあって、額は三十万をちょっと超えていた。
「遺体の方は、どうされますか」
「できれば、こっちですべて終わらせたいんですけど」
「わかりました。お父さんの住民票はこちらにあるようですので、早目に死亡届けを出していただいてよろしいでしょうか。役場にはここから連絡して、明日、火葬ということにしときますので。それまでは安置しておきます」
 脩一は、遺書に、また目を通した。
 最後にこう書かれてあった。
 小屋は、吉野奈美に、ピアノは関本脩一に相続する。
 奈美にも連絡された理由が、それで解けた。
 職員がすぐに手配してくれたこともあり、翌朝八時半に村営の火葬場の車が迎えにくることになった。
「ピアノは、母が持ち込んだんです」
「ええ、そうでしょうね。父はまったくやっていませんでしたから。でも、そんな大切なものをぼくがいただいていいんでしょうか」
「あなたのお父さんが望んでるんですから、それでかまいませんわ」
その後、二人はお互い考え込むように黙りこんだ。
すべての確認が終了すると、職員から、現場検証もすんでいるので小屋に入っていいという了解と合鍵のついたキーホルダーをいっしょに受け取った。発見者にも、早目に礼をいっておくべきだという忠告をもらい、住所と電話番号の書かれたメモが渡されたが、脩一は気が重かった。
「私は、これから見つけていただい方のお宅に挨拶にいこうと思っていますけど……」
 警察署を出ると、奈美が小さな声で話しかけた。
 脩一は、黙っていた。
「もしよろしかったら、いっしょに行かれませんか……。実は、この近くに、ほんのちょっとですがお付き合いのある人がいて、昨日、警察から連絡をうけてから、事情を聞いたんです。発見者の方にも、今日うかがうことは知らせていますから、きていただけたら……。それに私も、正直言うと、二人の方が心強いし……」
そこまで言われ、脩一も相手の手回しのよさに驚き、従わざるをえなかった。彼の車は駐車場に置き、彼女の車で向かった。
運転しながら奈美の話たところによれば、宗治の死体を最初に見つけたのは、人ではなく、猟が解禁になり辺りをうろついていた首輪に送信機のついたビーグルだそうだ。
「やっぱり、向こうも犬とはいえないでしょうしね。でも、それって、これと同じことですよね」
 彼女はハンドルを握った片手を離し、カーナビを差した。土産に、ちょと割高だが、自然食のドッグフードを買ってきていることを教えてくれた。
「無添加で人が食べても安全なんですよ。犬もずいぶん偉くなったとは思いませんか?」
 奈美の話しぶりを聞いているうちに、彼女が、二人の親との関係から生まれた一連の事件を、さして深刻ぶっていないことが感じられ、脩一は少しばかり拍子抜けした気になった。もしかすると、人目見て年下と判断した彼女が、脩一の余裕のなさと強ぶりに気をきかしていることも考えられたが、とりあえず彼としては有難かった。
 目印だという割れたカーブミラーを右に曲がりしばらくいくと、新建材と丸太を組み合わせた薄茶の壁の家が、集落の一角にあらわれた。呼び鈴を鳴らし、出てきた男は脩一が勝手に想像していた精悍さとは程遠い、むしろ華奢な体つきをしていた。
 簡単に自己紹介しお礼を言っていると、匂いを嗅ぎつけたらしく、裏から白と黒の斑な犬が走ってきた。いいタイミングとばかりに奈美は手にもっていたビニール袋を相手に手渡した。
 ラッキーという名のメスのビーグルは少々肥満気味で、そのときはふつうの首輪をし、ササミのジャーキーを貪るように食べた。湿気があるせいか、ニンマリと微笑む男の頭上と無防備な犬の鼻先を小さな羽虫がうるさそうに飛んでいた。どんよりと曇った初冬の午後にふさわしい肌寒い空気がひっそりと周囲を包み、鼻を突っ込んではアルミ皿を盛んに動かし咀嚼する音のほか何もしない。この男だったら自分は散歩に出ず、狩猟目的で開発された器材をうまく使って、犬だけを運動させていたことだって充分考えられる。
 脩一は、早くその場を立ち去りたい衝動に襲われた。
「私は、これから仕事なので、山小屋は明日、行くことにしますけど」
この道をまっすぐに行けば小屋へいけるという林道の角で車を停めた奈美は、さりげなく言った。
「脩一さんはどうされますか」
「ぼくは、ちょっと見ておきたいんで……」
「そうですよね……じゃあ、一度、警察署までお送りしますね」
車から降り立つと、奈美は名刺をくれた。情報メディア産業・フェニックスと書いてあり、代表の肩書がついていた。
「小さな出版社っていうか、印刷の請負いみたいなものです」
奈美は、風で乱れようとする髪を軽く右手で押さえながら、微笑んだ。
「あの、今日はいろいろ、お世話になりました」
 車のドアに手をかけた彼女に、脩一は申しわけ程度にぼそぼそっと言った。
「いいえ。こちらこそ……」
 脩一は、相手の視線が彼の車の前扉のシールに向かっているのを知り、自分から、
「パン屋をしてるんです。いつ潰れるかわかりませんけど」
 出会ってから初めて、和やかな顔になった。奈美も合点したように頷き、脩一の表情で踏ん切りがついたのか、一旦ドアから手を離し、訊いた。
「明日の火葬に同席させていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、かまいませんよ」
 脩一は、迷わずに返事をした。彼女がドアを閉める音で急に思い出したようにジャンバーの内ポケットを探り、窓からあるものを差し出した。修学旅行で買うようなイニシャルを縁取った金属がついている。
「渡しそこねるとこでした。鍵は、あなたがもっておくべきものですよね」
「でも、一つはそちらが預かっていてくださいません?」
「ありがとう」
 排気音が路面に鳴り、車が出発すると、いよいよ脩一はたった一人、森の中に取り残された気になった。不安だった幼いころの山道や人影に見え脅えた赤土から剥きだした木株が思い出され、無事、小屋まで辿りつき、鍵をあけられるかどうか心配になってきた。名刺と合鍵を再び内ポケットに入れ、溜息のかわりに深呼吸を一度大きくし、修一は山小屋を目指して、今来た道を引き返した。

コメントはまだありません

TrackBack URL

Leave a comment