「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『伝言』・その五

  五
「不思議ね。私たちも十ニ違うだなんて」
 五歳ほど上と思った奈美は、彼より一回り多く、三十八歳だった。宗治も三十三のとき四十五歳の明子と出会っている。
 マンション九階の奈美の自宅兼職場は、ときおりベランダに鳩が舞い下り、餌をやってはいけないため、跳ねるようにすぐに向かいのビルの屋上へ飛び去ってぃく。
相続を受けた山小屋やピアノをどうするか話し合うため脩一はやってきていた。
 二人が出会ってから二週間がたち、年の瀬が迫っていた。
「もうずいぶん古いし、それに女一人では、ちょっと泊まるにも物騒でしょう。よかったら脩一さんが引き取ってくれたらと思ってるですけど」
「僕も、どれだけ管理できるか、自信がないな」
「石窯なんかつくって、あそこで焼いたらけっこう評判になるんじゃないかしら。水もあることだし」
 パン屋は友人と二人で始め四年目を迎えていた。今はその相手ともいろいろとあって、別れている。学生時代、といっても脩一は三年で中退し、一年ほどパン職人の見習いをしたのだが、そのとき以来付き合っていた沙希という女性だ。
 沙希は脩一の準備期間を待つ形であれこれ動いてくれた。まず倒産物件の店舗を安く借り受けることができたのは土地家屋の調査士に知人がいた彼女の力に負うところが大きい。そこで脩一が手ほどきを受けた店の主人のつてでかき集めた中古の器材を使い、オープンさせた。彼女がいなくなり、早くも一年になる。
 今は細々と十種類ほどのパンを焼き、固定客で希望があるなら配達もしながらどうにか凌いでいる状態だ。材料費や光熱費、それに家賃を引くとほとんど残らない。
「水は保健所で調査してもらわなくちゃいけないんですよ。最近は厳しくて十項目くらいのチェックがあってね、営業に使うにはまず無理だと思うな」
「さすが、詳しいのね」
「あのあたりは、火山灰質でフッ素が濃い可能性が高いし」
「飲んでみたの」
「実は……」
 脩一は、小学校のときの山小屋体験や、いつも宗治がポリ缶に飲料水を用意してきていた話をした。
「水の説明は、父の受け売りです」
「へええ、驚きね。母はそのことは教えてくれなかったわ。けっこう、山の中で暮らすのってたいへんなのね」
「けっきょく、二人は何年住んだんですかね」
「ちょうど十年じゃないかしら。母が祖父からもらったあの土地にいっしょに暮らせる場所をつくろうって、借金までしてつくったみたい。あなたのお父さんが出てきたときは完成していて……癌にさえならなければ、まだいっしょにいられたんでしょうけど」
 そこで奈美は、事務所の隣の部屋に設えられた仏壇を見た。瀟洒な一段一段、前開きの茶箪笥の上に、質素なつくりの仏壇が置かれ、遺影や花がかざられている。写真は脩一が以前、レストランで見せてもらったものと同じだ。拡大してあるだけに背景の白がやけに目立つ。
「あっ、だけど、お金のことは気にしないで下さいね。あくまでもそれは二人の問題だし。それに十年だけでも同じ屋根の下で暮らせたことを、娘の私も嬉しく思っているんです」
 知らず知らず俯きかけていた脩一に奈美が気転を効かし、軽い口調で言った。脩一もそれに応えるように顔を上げると相手を真っ直ぐに見つめた。
「奈美さんは、お母さんといつまでいっしょに住んだんですか」
「高校までよ。運良く現役で大学に受かって、八つのとき離婚した父の養育費はそのまま私の通帳に振り込まれる形になっていたの。それで、卒業までは、たりない分をアルバイトで補って、どうにかやってこれたわ」
「びっくりだなあ。ぼくは七つで母子家庭になったけど、そこまで似てるなんて」
 濃紺の鳩がベランダのフェンスに舞い降り、クークーッと一声鳴き、二人を見た。
「なんだか、気持ちわるい感じですね」
 仏壇とべランダを交互に見くらべながら、脩一はつぶやいた。
「そうかしら。私は楽しいわ」
 その一言に、彼は予想以上に相手が親しみをもっていることを感じ、内心落ち着かぬふうで、ドギマギした。
山小屋の件は、とりあえず結論が出ないまま脩一はいったん店に帰った。いつもの習慣でパソコンのスイッチを入れ、画面が映し出されるとメールのチェックをする。
 送受信を押すと、こんな言葉が出てきた。
まだ、むりなようです。いつか、われるようになりたいです。
 沙希からだ。数週間前から、ときどき送られてくるようになった。脩一とパン屋を始めた女性だ。彼女が言っているのはパン生地に使う有精卵のことだった。
 脩一は材料にこだわり、卵は雛のときから餌や飼育環境に配慮した有精卵を仕入れた。洗卵されず、ときどきノコクズや薄緑の干乾びたフンが殻の表面についてきた。卵にはクチクラ層という肉眼では見えない薄い膜があって、洗うとその膜がはがれ雑菌が入りやすくなる。それに呼吸のための無数の穴もあいており、侵入した菌がアトピーの皮膚炎を引き起こす原因ともなりかねない。陽に焼け、額に深い皺を刻んだ四十半ばの農園の主人はケージから広々とした庭へニワトリを一羽出すたびに、熱心に説明してくれた。もちろん市販のものより割高だったが、脩一はその徹底ぶりが気にいり使っていた。
 ただ、有精卵につきものなのは、とどき生命を宿し数日たったものにぶつかることだ。
「わっ、何これ」
 沙希は、初めて卵黄に細い血管網が浮き出たものに遭遇したとき、殻を割ったまま脩一の眼の前に突き出した。
「やっぱり生きてたんだなあ」
 脩一は、むしろそれが証明されたように、感嘆した口調になった。だが沙希の眼差しは違った。じっと割れた卵を見つめ、暗い光りを抱え悲しげになった。硬直したように動かぬ相手から脩一は殻を奪うように引き取り、赤く染まった卵黄をアルミ皿に移した。血管の網はくずれ、中心にいたはずの雛の胎児も羊水といっしょに濁ったぬめりとなってまざりあった。流しに捨てるにも忍びず沙希の様子も気になったこともあって、外の小さな花壇の土を堀り、かぶせた。
「体にわるいものじゃないんだろうけどね」
 沙希は黙ったままだ。
「あとは、俺がするよ」
 その日から、卵の担当は脩一に移った。
 それからだ。沙希に微妙な変化が訪れたのは。
「こんなものつくったんだけど、どうかしら」
 彼女は積極的に脩一がつくったレシピから外れ、自分なりの考案でパンをつくるようになった。脩一も新作の意欲は買ったが、ただし決定的な問題があった。どんな分量で作ったのかその記録を残さないのだ。
「レシピをつくってもらわないことには、生産にはうつせないよ」
「あら、どうして? 私が頭の中でだいたい覚えているからそれでいいんじゃない」
「じゃあ、君がいないときはどうなるんだ?」
「つくらなきゃいいでしょう」
 脩一は、そこでいつも言葉を失いそうになった。それでも自分なりの考えを説明することはやめなかった。
「ぼくはこう思うんだよ。君のパンはなかなかにおいしい。それを趣味じゃなくて仕事にするんなら、ちゃんと分量を書いて、君以外の人もつくれるようにしとくことが必要じゃないかって。そうやって、いろんな場合も想定して、求める人にできるだけ的確に応えていくことがパン屋をやることじゃないのかなって」
 沙希がいなくなったのはそれから数日してからだった。簡単な置手紙が残された。
 ごめんなさい。あなたの言ったことをずっと考えていました。一つ一 つが、もっともで、その通りだと思います。でも、私の中にどこか、 そうじゃない、そうじゃないんだって言いつづけている部分がありま す。あの卵を割ってから、何かが狂ってきたような気がします。レシ ピどおりつくることも、やんなきゃと思うんだけど、どうしてもでき ないんです。その日そのときの自分の気分や思いつきで砂糖や塩やバ ターを計って、季節季節の果物をすりつぶして混ぜたりペーストした り、オーブンの温度を頃合いを見ては適当に上げ下げしたりする作り 方しかできません。けっきょくは商売には向いていないのでしょう  ね。ごめんなさい。しばらく一人にさせてください。    沙希。

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