「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『海神』・その2

 敏雄たちが博多で荷を下ろし戻ってきたのは、夜の十一時を少し回っていた。英治を家までトラックで送った後、敏雄は孝造の事務所にそれを置き自分の車に乗換え、アパートに帰ってきた。アパートは、かつて炭鉱町として賑わった市街から少し外れた湿気を吸込んだような暗い県道と僅かに交錯する細い道沿いにあった。
 律子が、待っていた。彼女は、敏雄のよく行き付けていたスナックで『エリナ』という名で働いていた。大づくりの女でちょっと町にはいそうにない顔つきをしていた。律子という名もどうやら疑わしかったが、彼女がそう呼べというから敏雄もなんの気なしに外に言うときはそれを通していたのだ。
 部屋の中には風呂から上がってすぐらしく化粧水の匂いがこもっていた。
 「おそかったね。ご飯食べてきたつやろ」
 「飯はよか。エイジとうどん屋行ってきたけん」敏雄は、手にしていた果物籠を律子に渡した。
 「お前、酸っぱいもん食いたいいよったやろが」
 「そっばってん……、こぎゃんたべきるやろか」
 律子は、レモンやら蜜柑の詰め込まれたその籠を重そうに両手で持つと腹の膨らみの上に載せるようにし、踞んでいいのやらそのまま立ってさっそくビールでも出そうか考え込んでいる様子だった。
 「そうそう、風呂入らんといかんやったね。わたしつかったばかしやけん、よう沸いとるよ」
 律子は、卓袱台に手を掛けると、よいしょと畳の上に膝を曲げ踝をそっと寝かせる恰好で横座りになった。
 「私だめなんよね。肌弱いし、なんか風通しが良すぎるとすーすする感じでいかんとよ」 まだ彼女と知り合って間もない頃、律子とホテルへ行った帰り、よく車の中でそんなことを敏雄は囁かれた。片足を軽く差し出し、くるくるとストッキングを両手で巻き上げながら別の他人の男がいることさえ気にしていないふうに色の落ち掛けた琥珀のマニキュアの残る爪先を反らせ、反対に空洞へのめり込ませていく仕草は、その頃の敏雄には退屈させない何かを持っていたし、前戯とも後戯ともつかぬ敏雄の粗けずった行為を律子は彼女なりに受け止めてもくれていた。
 「そういえば、ママね、昨日久し振りに会ったら私にこぼしとったよ。大事なお客さん盗まれた言うて……。でも変ね。ふつうやったら店の子とられたって喧噪ふりまくのに。やっぱ、田舎ばいねここ」
 律子はその頃つづけ様に、そんな柄にもないことをあけすけと敏雄につぶやいた。「私の代わりはね、もう見つけとるんやって。韓国から来る言よったけど。私より美人やけん、心配することなかて逆に励まされた」
 その店の主人はもと土建屋で、額には縦に深い傷のある色黒で凄味の利く男だった。やはり、敏雄と同じ工業高校を出たあと建築会社に勤めた経験を持っていた。ママはよくその当時の話を、客待ちでいるとき律子の前でしてくれていたらしい。
 「なんでも、出張がつづいとったげなたい。九州の中が主だったそうばってん、それでん何日も家ば空けとらすことが多かったって」
 敏雄は、喫茶店やその頃よく使っていた梨山の奥にある溜め池のほとりに建ったばかりの外国の名前を付けたホテルでよくその話を聞かされた。日頃あまり喋りたそうでないことも、律子はそんな時にはよく言葉になって出てくるようだった。
 「女ん人ば、ようつくりよらしたげなけん。夜ね、ひさしぶりで家におらしたら、他の女の人の名前ば寝言で言よらしたつ。よっぽど気持ちんよかったつやろうって、ママ言よらした」
 その話なら敏雄は主人から直接聞いたことがあった。一時その店に入りびたっていたとき一度だけマージャンに誘われたことがあったのだ。二階で女の自涜しているビデオを流しながら、いつものそこの常連の客と卓を囲み、二万ほど落としたそのときだった。
 自分がむっくり起き上がったとき、女房はやけに機嫌がよかったと言う。布団を片付けるときも食事のときも普段と変わらず、むしろ動きそのものには日頃には見られない軽快なところさえ見受けられたそうだ。子供を学校へ送り出してから、いつもならもっと露骨に疲れた表情を見せる筈なのにその日だけは何かそそくさと他人行儀なところまで感じられたという。頂度、仕事は休暇日に当たっていた。
 「夕べは随分、楽しそうやったね」
 昼飯時、それまで何やらおかしいと思っていた相手に突然つっぱぬかれたようにそう言われ、主人は一瞬冷やりとなった。それでも夢のことまでは皆目見当がつかず、黙って知らぬ振りをしていると、「りえって誰よ!」堪えかねていたように相手は絶叫し泣き出したと言う。狂気のようなものさえそこには感じ取れたという。
 「俺も悪いことしたばい」主人は高校が後輩の敏雄には、ついつい気を許してしまうのか、そんな話を人ごとのように語って聞かせた。エロビデオはいつの間にか切れていた。 次の日、事務所に行くと寺田の家から絵美が来ていた。
 尚子が今日は急用ができたため、その代わりに来たという。
 「尚子、今日デートやけん、わたしが顔見にきた」
 「お前に計算機いじくれるんか?」敏雄も中学まで同級生だった寺田の長女の絵美になると口が一層荒くなる。
 「あら、たーだ留守番しとけばよかつじゃなかっとね」
 「そっじゃエミ、ただの置物よりひどかぞ。お前も船で沖行って貝ば掘ってこい」   その日の干潮は、一時過ぎだった。そろそろ船を出す準備をしておかなければならない。 敏雄は海岸へ行く前に、一応昨日の卸値を孝造に説明した。
 「むこうには佐賀からもぼちぼち大粒のが入ってきよるけん、そろそろ柳川あたりに切り換えた方がよかつじゃなかか」敏雄は、由介が腰を悪くしてから仲買の仕事をとにもかくにもやり始め三年が過ぎ、今では少しは市場の動きが分かるようになっていた。
 「まだまだ心配せんでよか。そっちん方は俺が今日電話入れて確かめとくけん。お前は事故のなかごつ船とトラックば運転しよけばそれでよかつ」
 だが、長い間寺田を支えてきた孝造から見ると、そんな敏雄もまだ貝漁の本当の恐ろしさを知らない菊岡の若い甥に過ぎない。
 「そうそう、妙な女にも騙されんごつせんとね」絵美がふざけたように敏雄に近付き、しげしげと髭も剃っていない不精な顔を見つめた。
 「なんばほざきよるか。お前もはよ婿さんさがさにゃ、売れのこっぞ」敏雄が、軽くその頭を小突く。
 「建一が言よったが、昨日は英治に運転させたげなね。あいつは、荷揚げの手伝いだけきよるとやけん、あんまり無理さすんなよ」孝造は嗄れた声で敏雄に注意した。
 「行きだけちょっとしてもらったつたい。寺田んよか二男坊やけん、今の中うんと鍛えとかにゃね」孝造は、ほとほと困ったように「そっで、ちっとくたびれとるごたるけん、今日は休んどけ言うた」敏雄を恨めしげに見る。
 「オッちゃん、甘かね。まあエイジは俺んごつ高校途中で止めることもないやろけん、どっかん会社勤めして仲買することもなかろばってん」敏雄も所在なげに言う。「そんにケンイチ兄ちゃんもおるこつやしね」
 やがて、風通しを良くするため開けておいたサッシの扉口から、敏雄の声を聞きつけたように美佐江が息巻き入ってきた。
 「敏雄、なんしよっとかい。こぎゃんところで油売って、はよ船ば出さにゃ。とうちゃんが、今日はお前と行く言うてさっきから待っとらすぞ。急がんと潮ん干上がってしまう」 敏雄は美佐江には歯が立たない。返す言葉もなく絵美の方をちらりと見、観念したように苦い顔をするとそのまま事務所を後にした。
 「遅かったな、何しよった?」由介が、ダバを着て待っていた。
 「孝造んところで、もたつきよった」美佐江が敏雄の代わりとばかりに甲高い声で返事する。
 「父ちゃん、大丈夫とな。腰ん具合は?」敏雄も、さっそくダバを穿きながら由介の罅の入ったような浅黒い顔を見る。「こんくらいんこつで、どぎゃんなろ」笑いもせず相手は答える。
 敏雄は船の纜を杭から解き索輪を船首の中へ投げ上げ、由介と美佐江の三人船べりを外から抱えるようにして海へと押出した。船底と砂とが擦れ鋭く軋む音がしたが、それも潮に漬かるとすぐに収まった。女たちがぞろぞろやって来ていた。
 「さあ、乗ってくれんね」美佐江が愛嬌を振り撒き女たちを促した。
 敏雄は、由介とゆっくり船の向きを変えていった。ずるっずるっと少しづつ深みへと入っていき、膝の辺りに来るとそれを止めた。後は女たちが全員乗ってしまってからまた押出すのだ。漁船とは言っても、船べりが低く広い大形のボートのような形をしたこの船は女たちにも多少力があれば腕で軽く躰を押上げ跨ぐことができる。仲買で使うためのものを注文しわざわざ造ってもらったのだ。海苔の養殖などに使う船とも違いこれには、波の心配の方もさほど考慮に入れて造られてはいなかった。
 敏雄は由介と、女たちが乗っても揺れないよう船べりをしっかり握りながら、時折時計を見ていた。今こうしている間にも干潮は刻一刻進んで来ている筈だった。潮の引きに旨く乗りながら今度は沖へと向かうのだ。沖の表面が顔を見せるのはほんの二、三時間足らずしかない。
 女たちが乗り終ったのを見届けると由介と敏雄は潮が股に付くまで押しやってからほとんど同時に両側の舷からバランスを崩さないよう船の中へ乗り込んだ。敏雄は船尾に付くとさっそくエンジンを掛ける。スロットルを回し、スクリューの回転数を上げ、多少そちらに傾いだようだが、敏雄は気にせず舵をとった。
 「敏雄さん、今日は東風が吹きよるけん、ひと雨くるんじゃなかと?」顔馴染みの千代が訊いた。「沖ん出て雷きたらたまったもんじゃなかけんね」
 空は確かに雲行きが怪しくなりどす黒い雲がちらほら見え始めていた。夕立ちがやってくるのかも知れなかった。女たちは雷には臆病だ。いや、臆病というより敏感だった。敏雄ら男たちより素早くそのことを感じ取り声に出さずとも密かに怯えたり、いつの間にか忍び寄る足音を聴くように息を潜めたりする。貝掘り女とはいえ、そのときは普通の女に戻り、豪放さはなくなっている。

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