敏雄は、頂度良い酔い醒ましとばかりにママが制止するのも聞かず車にどっかと乗ると、アクセルを吹かした。
風が熱を持った頬をなぶり、躰を弄ぶように包み込んだ。やがてどこぞの父親になる男の躰だった。風は覆うかと思えば、また逃げた。敏雄はその風を追うかのようにアクセルに力を入れ、たちまち速度計は、九十キロになった。敏雄が幼い頃からよく知った土地だった。やがていくとカーブがあり、そこを越え三叉路からその右を真っ直ぐに行けば海岸に出られる。由介の言ったことを信じているわけではなかった。貝が山のように雲仙と重なるように見えた。戯言だ。皆して俺を担ごうとしている。敏雄はカーブに差し掛かった。最近舗装されたばかりの道だった。炭鉱会社が持っていた元炭住地の土地を市が買取り、潰してつくった道路とそれは間もなく繋がるという話だった。律子の顔が浮かんだがそれもすぐに消えた。三叉路を折れ、敏雄はまた一段とスピードを上げた。一二十キロをメーターは打った。こ煩さい警戒音も気にはならなかった。直線路をこのままただ突っ走るしかないと敏雄は思った。戯言か幻であってもそれを自分の目で見、確かめるしか術を知らなかった。
潮の匂いがしてきた。
車の速度を落とすとタイヤは大きくスリップし、そのまま半回転し危うく堤防にぶち当たりそうになったが、運良く段差に助けられその寸前で停止した。
雨は止んでいた。車から出て堤防を駆け下り砂浜に立つと敏雄は、目を見張った。雲仙岳と多良岳の異様な黒い影の間に聞き覚えのある塊があった。よく見るとそこには女たちが集い声を出しながら網を持ち腰を屈め、忙しく手を動かしているのだった。敏雄は近付くこともできずその場に立ち往していた。
声がした。幻聴のような響きをしていた。女たちのざれごととも律子の苦しみよがいている呻きともそれは取れた。敏雄はそのことを自分の耳に留めるとしばらく茫然とした。 どれだけたっただろう、敏雄はまた切り裂けるような潮の打ち寄せる波の音で自分を取り戻した気になった。何かが可笑しく嘲笑いたいのを必死に堪え、また車に引き返した。由介の言ったことをわざわざ真に受けここまで車を飛ばして来た自分が、やがて二十五になる男とは思えぬほど面映ゆく情なかった。海はよく見れば相変わらずいつもと同じ情景なのだった。波の音がここ数日降りつづいた雨や風や台風のことも忘れさせるように静かに鳴っていた。
美佐江の電話の声で、敏雄の頭が割れるように音がし目が覚めたのは、その次の日の朝早くだった。
女が生まれていた。
夢の中にいるように、敏雄には思えた。 (了)