「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『塔』・その2

             春
 路地苺は、見事なコラージュを地面との色彩の対称性の中に描き出していた。苺は、上空から見るとまるで点描されたスケッチ画の挿絵のようで、真っ赤な表面は、一粒一粒は肉眼では識別できず、もちろん区切りは見えないのだが、全体としてはたしかに路地苺特有のやや色の褪せた赧が地面との葉や茎とに締め出されたように浮き上がり、微かな鮮明さとでもいうべき淡い色彩の中に僅かにくぐもった線をはっきり持つ輪郭を、崩すことなく示していた。
 私は、はるかに自分より年下であろうと思われる操縦士に話しかけた。相手は随分と若かったのだ。
「きれいだね」操縦士は頷いただけだった。無理もない。まだ会って数時間しかたっていないのに、そう簡単に言葉が出てきてたまるものか。私は、静かに視線を外へ移すと、同行していた写真部の柄本という男にどんどん撮影していくよう指示を与えた。相手は、持ってきていたカメラを既に両腕で固定させ、しっかりとアングルを固めているようだった。
 「できるだけ低空を、大きく円を描くよう飛んでくれ」操縦士は、打ち合わせの段階で既に聞いているその言葉に、了解の意味で軽く頷き返すと、ゆっくり操縦桿を動かした。尾翼と両翼とに微かに風と空気の抵抗があったためか、押し上げるような揺れが震動のように広がり、躯の下腹を中心に伝わってきた。そのとき私の方はと言えば、取材ノートに簡単なスケッチと苺だけではない、家々の村ごとに散在する風景とその有様をできるだけ客観的にとらえられるよう書き取っていっていたのだ。とは言っても、走り書き程度で、ほんの概略をである。上空を飛んでいる以上、そう時間は長くは許されないことはわかりきっている。私は、カメラマンにもう一度念を押すというよりも、普段の口振りで言った。「たのむぞ、しっかり撮っといてくれよな」
 チャーターしていた時間が過ぎ、そろそろ今回の取材も終え、セスナ機が飛行場へ戻るために一度海岸線へ出、旋回しかかったそのときだった。私は、一瞬自分の目を疑った。
 あれは、夢の中に出ていた塔ではないか。
 「ああ、ちょっと君……」操縦士にそう言いかけて今度はまた、私は自分の発見に心底裏切られなければならなかった。一見塔に見えていたその建物は、実は、海岸寄りの地方に行けば、ほとんどどこにでも見かけられる白くセメントで塗り固められたポツンと立った灯台だったのである。その灯台が、そう見えたのは、セスナ機の接近の仕方と、夢の中での私の近づき方とがあまりに酷似していたせいであったからかもしれない。最初、灯台を隠していた小高い丸みを持った丘とその向う側にキラリキラリと針のように光る幾本もの波を眠らせた大海原が目に入り、そのときその灯台は、徐々にだが、大胆にその両者とに挾まれ、右先端から姿を現したのである。私は性懲りもなく、またメモをとった。塔ではないとわかっていながら、まるであの塔と出会えたかのように僅かではあるが歓喜を覚え、しかし内心では何も考えず、ほとんど義務的に取材の延長の態度と言わんばかりに鉛筆を走らせたのである。
 「柄本、あの灯台もついでにおさめといてくれないか」「灯台を?」「ああ、そうだ」「わかりました」相手はいかにもカメラ屋らしく、しかも入社して間もないためか、いつになくはりきっていた。カメラをいじることそのものが好きで、必要とあればどんどん撮影していたいらしい。そんな彼に被写体の余分な説明はいらないのだ。
 社に戻ってから、私は自分のメモと現像し終わったばかりの写真を見比べ、何かそこに隠された暗号でも探り出すかのように、もう一度夢の中の情景を思い浮かべていた。まだ空中をセスナ機で飛行している感覚のわずかに残る身体と夢の中での飛翔感とが重なり合えば、今よりももっとはっきりとしたものが何か掴めるような気がしたからだ。デスクと向き合った姿勢をしばらくとっていると、
 「吉田いいものが撮れたな」
 「まあね」編集の久具が声をかけてきた。「柄本も腕を上げたよ」私は、そう言って顔を上げた。
 久具は私とこの社に、二年違いで入ってきていた。久具の方が先輩なのだが、私が学生でしばらく余分に過ごしたため、年齢は同じだった。
 「ところで久具、おまえこの灯台知ってるか」「灯台? そんなもんあったっけ」  ほら、と私は何枚かある灯台の写真を掴み、相手の目の前に突き出した。
 「へえ、これはどのあたりだ?」久具の質問に、私は一つずつ丁寧に答えていった。 「あすこに、こんなもんあったけねえ」感心するようにして、久具は言った。
 「俺も、まさかこんなもんがあるとは、思わなかったよ」私も半ば呆れたようにして言った。「しかし、これは本物だよ。さっきこの目で見てきたばっかりだ」
 新聞関係の仕事をしていると、外部の者から見れば、かなりの知識を持っているように思われるかもしれないが、そうではない。やはり仕事である以上、専門というものはいつも付き纏っていて、その上かりに業務でどこそこへ行く機会が多いからと言っても、それが単なる取材先と会社との無意味な往復ともなり兼ねない。行ったことのない場所は、やはり「行ったことがない」と言うに等しい程度のことなのだ。そんな私が、この灯台について知りたいと思ったのは、自然な成り行き以上に、夢で見たあの塔と同じように、何か魅き付けられるものがその灯台に存在していたからかも知れない。
 突然、降って湧いたようなそんな思いを、私は、そのとき既に、しばらく自分の頭の中で大事に持ちつづけてみようと考え始めていた。そんな私の心情を隣に立つ久具が知るはずもなかった。
 私は、編集チーフの鹿島に、今回の取材でもう少し詳しく調べてみたいことが出来たからと無理を言い、頂度、柄本も空いていたこともあって彼も連れ、その灯台がある場所まで、車を走らせた。 
 「まあ、今度のにはお偉いさんからのかなりの調達があるからね。うちとしちゃあ、ビッグなメインで派手ににしたいんだ。ただでさえ農業を扱えば暗くなりがちだしな。せいぜい枠外さない程度にがんばってくれよ」私はハンドルを取りながら、鹿島の、出かけるときには反対に励ますような口振りにさえなっていた、脂ぎったのっぺりとした表情を思い出していた。
 「吉田さん」柄本は助手席でレンズを磨きながら、言った。
 「俺、あの灯台写しながら、何か懐かしいような不思議な感覚持ったんです」
 意外な柄本の切り出しに、私は、どう反応していいか最初戸惑った。しかし、そんなときには普段から、こちらが彼との間でとっている距離が答を出してきてくれる。なまじ頭で考えたものでない、仕事やいろんな場面を通し身体に深く染み込んだ、理屈抜きに反応する情動のようなやつだ。頭で思考させることを私が意識的にか追い詰められてか、どっちにしろ最終的に自分の意志でストップさせると、それは、いよいよどこからともなく這い出すようにしてむらむらと湧き出てき、躯に張り巡らされたワイヤーのように頑丈で、それでいて実に細かく穿った糸を手繰り寄せながら、相手に応じたそれぞれに記憶されている動きに撓いだり、時によっては狂ったようにして暴れ出す。当然、それに合わせ身体の隅々も、開き直ったように大胆に、あるいは神経が過敏すぎると思えるほど、私をよく知っている者から見てさえ別人にしか思えないほどぎすぎすと動き廻るのだ。おまけに何者かに操られていると言った圧迫感も、ぎこちなさも、不自然さもまったく自分では感じない、といった具合にである。
 その時もそうだった。
 「へえ、どんな感覚だい、聞かせてくれないか」私は、さもそうしようと前もって待ち構えていたかのように、ちらりと柄本の方へ視線をやると、そこがたまたま、カーブに差しかかっていたため軽く手首を返してハンドルを切り、片手を離すと付けっ放しになっていたラジオのスイッチをポンと叩いて切った。一瞬、そのときニュースがあっていたらしく『あっ』とも『うえっ』ともつかないアナウンサーの最後の声が、擬音のように意味不明な音となってもぎ取られ、その拍子に投げ出され、小さな果実のようになって車内に転がり、同時に砕けて消えた。
 柄本の話は、こうだった。
 「それが、あの灯台なんですけどね。あれ見てると、ほら、よくあるでしょう。遅くなって帰宅しているとき、ああ随分走ったな、運転しているなあ、そろそろ家かなって回りを見回してみるとまだ相変わらず、いつも通る道路の半分しか来てないっていうのが……。それなんですよ。あれ、俺、今まで一体何考えて運転してたんだろう。ハンドルちゃんともってたんだよな。カーブ差し掛かったとき、隣走ってる車にぶつからなかったところを見ると、ちゃんと運転はしてたんだろうな。でも、そうこうしているうちに、スーッと、さっき確かに抜いたはずの車が、信号停止している自分の車の隣に横付けしてくるんですよ。それと同じなんです。ああ、もう随分写真とったな、だいぶ灯台の回りまわったなって。でも、肝心な納得できる奴ぜんぜん撮ってないんですよ。」
 「それは、おもしろい話だな」私は、坂道になったためギアを一つ落としながら、また柄本を見た。車窓の景色はほとんど視界に入らなかった。私は、周りにある、今、手がとどくかとどかないかのところに連なる張りぼてのような景色より、写真のネガに私の記憶とともに焼き付いたあの灯台の方に大きな魅力を感じていたし、柄本の話すその内容がそんな私に拍車をかけていた。
 「お前は、あそこに灯台があること知ってたのか」私は、今度は振り向かず訊ねた。「いえ、俺も灯台があるなんて知りませんでしたよ。お恥ずかしながら。高校出て、免許とってから何回か、俺も車で実際、ドライブに行きました。でも、あったけな、あんな灯台。ねえ、吉田さん、あなたもあんなもん見るの初めてでしょう。俺、上からファインダー覗きながら、信じられなかったもん。こっちだって、カメラマンの端くれとしてこの辺の地理的なことぐらい一応だいたいどこに何があるかちゃんと頭の中に入れてるつもりですよ。吉田さんだって、そうでしょう」
 私は、返答に困った。柄本の言うとおり、まったくそのとおりだったからだ。驚いたのは、彼だけではない。私自身、セスナ機から灯台を覗きながら、不思議な幻覚のようなものに打たれていたのは事実だったのだ。灯台が自分の目の前に現れ、まずこの両の眼を疑った。夢と今見ている現実とが逆転している。これは、何かの間違いだ。自分自身の中で、今見ていることと夢の中でのことが奇妙に出入りしては擦れ違っている、そんな気がした。そして、ここにこんなものがあったこと自体への強烈な疑問も一瞬だけだが湧いてきた。しかし、胸の中の興奮はなかなか消えず、その興奮が事実をも飲み込むようにしてこの疑問を打ち消した。内心では、最近では記憶にないくらい珍しく、慌てていたのかも知れない。
 塔は、そのとき形を変え、確かに私の目の前にあったのだ。
 車が、本車線と二股に分かれているところに差し掛かった。一方はそのまま、この先にある海水浴地である弓なりになった海岸へ続いていてゆったりとしたカーブをさらに描きながら進んでいけばいいのだが、もう一つの道は、かなり急な勾配を持っており、その先には果たして何があるのかここからでは視界の外になってしまってわからない。雑木が深く生い茂っていて、道は当然車の通るに充分な入り口がここにあるわけだから、その中もつづいていることだけは確かだろうが、それでも行ってみないと本当のところははっきりしない。私は、この道に行くのは、初めてだった。ただ言えることは、間違いなく、こちらの道が小高い山の裾野を越え、あの灯台のあった場所へ真っ直ぐに繋がっていることだけで、私はそのことを柄本に確認することもなく、躊躇せずギアをローに入れ、登っていった。かなりの急斜だった。
 だが、その登りも過ぎてしまうと早かった。その先は穏やかな傾斜を持ちながらも、ほとんどそれを体感するといった具合ではなく、ただ単にアクセルをやや深めに踏んでおくということと、後はエンジンの排気音からだけくる感覚でつかむといった状態だった。そうやって、私たち二人は、あの灯台のあった岬の先端へ近づいていった。
 雑木林を抜け、見晴らしの良い場所に着いた。適当なところに車を止め、私と柄本は降り立った。岬がつい目と鼻の先にあった。
 そしてそこには、灯台は……、なかった。
 「吉田さん、あすこですよ。どう考えても灯台のあった場所は」柄本が信じられないといった様子で、岬の先端を指差し私の方を見た。「おっかしいな、おっかしいな……」何度も、同じ言葉を繰り返していた。私は、そんな柄本をよそに岬の方へ歩いていっていた。岬は、ここから見ると、確かに海岸線からはみ出した突端に位置するのだが、同時にこんもりと高くなった丘にもなっていた。手前からは、また人一人が歩ける程度に道が狭まり、ぐんぐんと傾斜する形でその先につづいていた。いよいよ最終目標である灯台のあったその場所へ足を踏み入れるのだ。頂度そこに、小さな石碑といった感じで、文字が刻まれているものがあった。それにはこう、書いてあった。
 フォーチュン・ヒル(幸運の丘)
 良い名前だ。私は、なんとなくそう思った。
 道は石段になっていた。その周りには、雑草が生い茂っていて、春の蟲たちが何匹か羽音を立てて飛んでいた。一息に登り切ると、石段はなくなり、獣道のように枝々が所々垂れ下がり邪魔をした。一旦、見晴らしが悪くなり、またすぐに最後の坂を登り切ったところからさっきと同じか、またそれ以上に良くなった。『幸運の丘』の中心に着いたのだ。
 やはり、灯台は、その跡らしきものさえなかった。
 目の前には、大海原が、これ以上広く遠くまでは見渡せないであろうと言うほど、それを自負するかのように迫ってきていた。振り返ると雑木林も今登ってきた道も後方に下がり、車を置いた場所が何の遮蔽物もなく視界に入れることができた。柄本が立っていた。彼は、いろいろ風景を自分の気の向くままに撮っているらしかった。私は、切り立った崖っぷちのところまで歩いていった。左下に、海岸線が見え、向こうの丘と崖とに挾まれるように弓形をした浜辺が、波を静かに受けて佇んでいた。夏なら当然、海水浴客たちで賑わう砂浜も、今は誰一人いなく閑散としているのが、かなり上に位置するこの場所にも伝わってきた。私は、その場で柄本がやってくるのを待った。
 彼は、それから十分ほどしてやってきた。
 「吉田さん、ここ、えらく見晴らしが良いし、開発すればまた一つこの辺りで名所になるんじゃないですか」
 「でも、ちょっと静かすぎるし、淋しすぎるな」私は、感じたままを言った。「そうですね」柄本も同感らしかった。潮風が時折、煽られるように、風と風との中にも層がはっきり存在するのだと、それを証明したいのか、躯の下半分と上半分とで違った感じをもたらしながら吹いてきた。
 「お前が、さっき撮ったやつだよ」私は、柄本に持ってきていた写真を、上着の内ポケットから取り出して見せた。「灯台、ありましたよね。ここに」柄本は、実際に撮影し、現像もした本人であるにもかかわらず、実に心細そうだった。
 その写真には、確かに今我々が立っているこの場所に、全体が白く、どことなく無愛想で、しかも無人の建物に共通する周囲とどこかで同調していない、それにもかかわらず、そのことを目立たなくしながらひっそりと立っている、そんな、人に例えるなら芯の強さというか、簡単には揺るがず、しかもどことなくそこへ自然と引きつけてしまう幽かな感じをもつ灯台が、立っていたのだ。
 「一体、どういうことでしょう。吉田さん」しげしげとその一枚の写真を見る柄本に、「俺も、知らんよ」私は、投げやりに、そう答えた。さっきの妙な感覚の話は、さすがにその時はする気にもならなかった。
 そこからの帰りに、私は、柄本がひょんな拍子に言った彼の祖父の通っていたという軍需工場跡に案内してもらった。そこからそう遠くないところにあるというのだった。 「もう、そこは取り潰されて、公園になってますよ。当然のことでしょうけど」
 「そうか。まあいいじゃないか、せっかくここまで来たんだから」
 我々は、その岬から後戻りをし、また一山を越え、麓に出た。
 公園は、麓をちょろちょろと蛇行しながら流れる川にかかった橋を渡り、しばらく行くとすぐにわかった。公園を挾んで狭い道路があり、その向かい側は土手に面していて、そこに、切り通しを旨く利用してつくられた工場の名残の弾薬庫の跡が鮮やかに今も残っていた。ただ、現在は扉もなく、まるで横穴式古墳のように四つ上下に二つづつ規則的に並んでいるだけで、無防備に外に向かって開き、かつての堅く閉ざされたように外部から遮断されそこに運び込まれていた弾薬の所狭しに積み上げられている様子を知る由もなかった。
 「あそこは、今じゃ、子どもの恰好の遊び場でしょうね」
 「そうだろうな」弾薬庫跡へ向かいながら、私は素っ気なく答えた。公園の方は、まるっきりなんの面影も残らないほど整地され、見事に生まれ変わっていた。土を剥がしても戦車のネジ一つ出てきそうになかった。私の足は、自分自身、ただふらっと寄っただけだといのに、少しでも当時の様子を残すそちらの方へ向かっていた。
 太い鉄の枠が嵌め込められたその穴の中は、冷んやりとし、昼間でも薄暗かった。もちろん火薬の匂いなど何もしない。おそらく、戦争中はもっと奥まで、一体どの程度まであったかはわからないが、かなり深いところまで掘られていたであろうことが、その穴を埋めてしまっている奥のコンクリのいかにも流し込んだと言わんばかりの不自然な凹みのある壁から察せられた。そこだけがいかにも新しく、入り口に僅かに残る当時の鉄板の持つ黒消しや錆びと混ざり合ったような感覚と不釣合に存在していたからだ。
 下二つを見た後、外に非常階段のようにして添えられている階段を登って上のも見た。つくりは、まったく一緒だった。
 「吉田さん、そろそろ社にもどりましょう」柄本の言葉に促されるようにして、私はその場を立った。
 第一回目の特集の反応は様々だった。うちの社には珍しいほどの沢山の投書もきた。 わたしは、四十年、農業をやってきた者だが、こんなにうれしかったことはない。苺栽培の様子が鮮やかに写真に写し出され、事細かにその変遷も調べられ描写してあった。しかも、農業がどれだけこの地に貢献してきたか、そのことも強く訴えてある。私の息子なぞ……後は、また嫁不足か、後継者不足の問題を淡々と嘆く内容になっていた。投書のほとんどが、そんなものが中心だったが、中には、貴重な紙面を使って、今更あんな記事を、例え季節ごととは言え連載する気が知れない、という、いささか立腹した抗議めいた文もあるにはあったが、それは取るに足りないことだった。この連載の出発は、一応成功したといってよかったのだ。
 「吉田、まずは、良いスタートが切れたな」久具が激励の意味で言葉をかけてくれた。その横では鹿島がニンマリと笑っていた。これで、資金もとの代議士に立てる顔もでき、一安心といったところなのだろう。
 実はその時、私は、密かに、もう一つ鹿島に特集の願いを出していた。あの灯台だった。
 「あるのかないのかもわからない幽霊記事が出せるか。うちは週刊誌じゃないんだ。地道に地元と結び付いてどうにか生きてきた新聞なんだぞ。なんの根拠もない灯台に、たった一枚の写真だけをもとに紙面をくれなんて、そんな無茶なことがよく言えたよ」まあ、そんなふうに再三に渡る申出は、体よく断られていたのである。行き着くところ、私は柄本と一緒に暇を見つけては他の取材のついでに、灯台のことについて調べ上げていくしかなかった。まずは、少々大袈裟だったが聞き込みから始めていった。あの近所、と言ってもあの辺りには民家がなかったが、他にあの灯台を見た者がいないか、また、それに関する資料がどこかに隠されてはいないか、そんなところから始めていったのである。
 何と言っても相手は、一枚の写真の中に偶然か、もしくはたまたま撮影された、現実には存在しない灯台、だったのである……。
 しかし、不思議なほど全くといっていいぐらい何の手掛かりもなく、春は過ぎ、熱い日射しがこの地方にもやってきていた。

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