「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『塔』・その5

              木村の手記
 独房は、少しずつ監督の目が揺るやかになってきていた。戦況が、今、どう変わってきているのか、ここに連れてこられてから、判断ができにくくなっているが、そのような僅かの変化でどうにか見当がつけられる。果物が腐ったような匂いがいつもしている。ここが海岸寄りにあることは、少しづつだが、自分以外のここに連れてこられている囚人や、またはこの仕事に従事するほとんどの者が寝静まった真夜中、微かに聞こえてくる波音でわかってきている。つまらぬことで飛ぶ看守の怒声や罵声も最近では少なくはなったが、何よりも昼間は、聴覚を集中させるのに暑すぎる毎日がこのところつづいているといっていい。
 自分は、鉄格子越しに看守に起こされた。また、いつもの取り調べが始まる。苦虫を噛み潰すような思いがする一瞬だ。私が、確かに上官を撃たなかったのかどうか、という軍の執拗な質問は、以前は昼となく夜となくつづいていたが、最近ではすっかり少なくなり、労役の合間を縫ってたまにあるくらいだ。もちろんです、と私は、ただそう返事をするしかなかった。
 私は、当時、歩兵部隊のある連隊に所属していた。そこで一つの事件が起こった。一人の上官が死んだ。最初その上官の死は、大本営には、自決であったと連絡されていた。絶対国防圏の防備強化のためやがて乗り込むべく南洋諸島の一画に位置する島への機動準備としての僅かな内地での時間と厳しい訓練の合間に、その自決事件とでも言うべきものは発生した。しかし、何のための自決か、そこが問題だった。既に、その島には別の歩兵連隊が先遣隊として出発し、我が隊も、準備を整え向こうでは、隊の到着を今か今かと待っているその矢先のことだった。つまり上官の死は、早すぎる、理由の分からぬ死であった。そこで浮かんできたのが、部下の上官殺しであった。私は、かつてその上官と揉め事を起こしていた。内地に戻ってくる前加わっていた戦闘の行軍中に飯盒を失くした男を、私が庇ったのである。
 いやしくも天皇陛下の授け給いしものはすべて、御心の分身たるものだぞ。その上官は叫び、私は、失くした当の本人よりいやというほどその上官に殴られ、まだ寒い二月のことだったが罰として腕立ての姿勢のまま、外に数時間静止していなければならなかった。しかし、そのようなことは、その当時よくあることだったし、揉め事と言えるほどのことではないことぐらい誰もが知っていた。しかも、上官と言っても、連隊の指揮に影響を与えない下級官部の死である。懇ろに葬っておけば、それで事よしとできるはずだったのだが、なぜか、その上官の死の疑いが私にかかってきたのだった。
 そして、私は、反逆罪の容疑に問われ、ここに連れてこられたというわけだ。もう既に、私の所属する隊は、死守すべく南洋の島に向けて出発している頃だった。
 私には、ここに来て、次第に焦りの色が出てきていた。もしかすると私は、このまま部隊には戻れず、この内地の一体どことも知れぬこの場所で朽ち果て、死なねばならぬのだろうか。確かここに連れてこられたときは、まだ初春の爽やかな風の吹く頃だったように記憶している。頭からは、すっぽりと目隠しのため袋を被せられ、着いた先が、この地下壕だった。地上から数メートル下につくられているらしく、風がないかわりに、空気そのものは日を浴びて熱気を帯びる心配もなく、蒸し暑さといったものはなかったが、ただ何とも言えぬ逼塞感はやはり付き纏っていた。躯を動かしているときはさほど気にはならないのだが、じっとしていると今にも周りの岩々が全身に襲いかかってくるような息苦しさを覚えた。また、いくら暑くないからと言っても、肌には、ときとして汗の玉が吹き出すこともある。私たちは、取り調べがないときは、この穴の工事をさせられていたのだ。まだこの地下壕自体、完成途中にあるらしく、この隧道の行き着こうとしている最終的な場所は、はっきりこちらに示されないだけに、ここから随分先のような気がした。
 与えられた道具は鶴嘴と、支え棒に嵌め板といったところで、また削岩用としてドリルもあった。電源は、発動機を使ってつくり出していて、それらは、監視のための常夜灯にも使われていた。
 しかし、我々は、別段逃げ出すたちの囚人というわけではなかった。捕えられて、または容疑をかけられてここに来ている者は、私の他十数名いたが、誰もが無口で、少なくとも外見だけからは不穏なことを考えているようにはまったく見えなかった。それどころか、おそらく元の部隊ではそうしたであるように、全身全霊を打ち込み、この作業に精励している様子がよく伝わってきたのである。それに加え、まだ私より幾らか年の若い学徒動員組も作業をしていた。顔には、まだあどけなさの残る少年たちで、おそらく彼らも、この穴がどこへ通じるのか知りはしないのだった。その子たちは地元から来ているらしく、夜になると規律正しく整列し、帰っていった。私は鶴嘴を打ち込みながら彼らの心情が、果たして今いかなるものか考えた。
 食事は、毎日二回、朝と晩、与えられた。と言っても、朝の食事は、お椀に薄い汁が盛られているだけで、夜も皿と鉢に僅かに固形物と言えるほどの切れ端が載っかっているだけだった。
 監視の一人は、私たちが運がいいこと。戦地では、食糧さえ尽きてることを憎々しげに配給口から食事を差し出すたび、決まって、あけすけと言った。私自身、好き好んでここにいるわけではなかったが、さすがに労働の後は、私の胃や腸も養分を求めて動き回っているらしく、喜びとも悲しみともつかぬ気持ちで皿を手にし、むさぼり食った。そんなときは不思議なほど、地下壕は静まり返り、食物を咀嚼する音だけが、各房から獣が這いずった後の獲物に食らいつくときのように、生き生きと聴こえてくる気がした。 当然のことだが、独房と独房を隔てているのは、厚い岩の塊だった。躯を僅かにずらす音や寝息など、壁を通しては聴こえて来ない微かな音も、一たび鉄格子から外の空間へ解き放たれると、むしろ地上にいるときよりも軽くエコーがかかったように響き返り、充分なほど、私の二つの耳にとどいてきた。
 私は、最近、自分の隣の房に入ってきた男に目星をつけていた。
 朝食を終えた後、取り調べがない時は労働に従事するわけだが、そのとき房が開けられ、例の掘削点まで整列して向かう。私は、自分の前にいる男がその並んでいる順番からしても、またいつも独房へ帰る位置からして、間違いなく隣にいる囚人だろうと考えていた。
 いつものように道具箱からそのまま鶴嘴を手にした私は、その男の横にすかさず移動し、監守たちの目を盗んで話しかけた。
 私は、自分の名前を言った。男は、驚いたように、しかしそういった状態を良く心得ているらしく、声を荒げることもなく、小声で自分が、坂本という名前であることを言った。そして、ここに来るまでは北の電信連隊にいたことも告げた。看守たちもその頃には、私が最初にここへ連れて来られれたころと違って、殺気立ったところがなく、仕事に紛れて話す一言二事の会話にまで、厳しく叱責しなくなってきていた。戦況が、一段と進んできていることが、そんな挙措動作からもはっきりとわかった。
 相手の方が私よりここに来るのが遅かったため、聞きたいことがある旨を告げると、男は頷いた。外は、今どんな状態なのか、私は尋ねた。坂本は、首を横に振った。それは、わからないという意味なのか、それとも駄目だということなのか、私にはそのどちらともとれた。しかし、彼の表情の様子からすると、かなり苦しい戦況にあることだけは充分掴めた。
 その日から、私と坂本は、お互いの独房の壁を、丁寧に丁寧に削り始めた。岩は、思いの他、わりと脆くなっていることは既に、その肌触りからわかっていた。道具は、作業中、鉄の小さめの杭を難なく盗むことができたし、調達は思いのほか簡単だった。それほど、今や、看守たちの目は我々でなく別のところへ注がれていた。
 五日もすると、お互いの声が、何とか届くまでになった。
 私たちは、外にできるだけ響かぬよう声を抑えながら話をした。
 私も、実はなぜここへ連れてこられたのか、わけがわからない。まあ、夜中によく、無線器の前で居眠りしていたとき訓戒をうけることはあったんだが、…私の言葉に坂本は、本土決戦もやがては時間の問題であろうと言った。
 『本土決戦』……私は、その言葉を聞いて、それでは我々の連隊が出動した島はどうだったのか、不安になり訊ねた。思わず声が少し上ずってしまったようで、誰もいないに決まっているはずの周囲を再度見回した。おそらく、だめであろうと坂本は、言葉少なに言い、しばらく黙ってしまった。
 無為な時間がそれから過ぎた。
 私は、敢えて坂本に、日本は、負けるのか訊ねた。その言葉にも相手は答えなかった。次にこの穴は何に使われるのかという私の質問に、これは、本土決戦に備えての地下壕になるんではないのか、というのが坂本の考えだった。それに対して私は、素直に納得した。それでは、これも無駄にはならないわけだ、私は、少なからずホッとし、その気持ちを相手に伝えたが、坂本は返事をしなかった。こちらの考えと相手が少し違っているなと、私は即座にとらえた。
 それから、我々は、幾日も幾日も穴を掘りつづけた。取り調べも、最初からすれば、日に二度も三度もあっていたものが、一度になり、それがやがて二日に一度になったかと思うとついに三日に一度から、今では思いついたようにたまにあるだけで、ほとんどが作業だけになってしまっている。やがて、何かが起こる。私は、そう考えた。
 本土決戦という言葉を坂本から聞いて以来、私は、我然鶴嘴を振り下ろす手に力が入った。穴を掘っているときだけが南洋で闘っている戦友たちと同じ気持ちでいられる、そんな自分へのせめてもの哀れな慰みが先にたったのだ。
 ある日、朝、いつものように朝食を待っているといつまでも看守が現れなかった。それにも増し、なんとも言えぬ静けさに驚いた。私は、隣の坂本を呼んだ。坂本も、さっきから不思議に思い、まんじりとせず座っていたと言う。格子のところへ行き一二度叫んでみた。だれも来ない。私は、咄嗟に、本土決戦がついに始まったな、と思った。我々は、とうとうここで最後の最後まで恥をさらしながら敵の銃弾を浴びることになるのだ。だが、すぐに私のそんな思いは、見事に覆された。格子から僅かに手の届くところに、見覚えのある金属物が音を立てないよう気を配ったように、きちんと置いてあったのである。独房の鍵束だった。我々に自分で牢を開け、決戦のときを迎えよということなのだろうか。大本営の最後の、我々への通達であり、心尽くしなのか。私は有難さで胸が締め付けられる思いがした。私は坂本にすぐに言って、その鍵をとってもらった。彼の方に近かったのだ。十数人の囚人たちは、すぐに独房の外に出られた。
 これは、おかしいですよ。吉田さん。すぐ、外へ出ましょうと、坂本は、いざ出陣という私の気持ちとは裏腹に、地下壕を反対側に走り始めた。私はと言えば、最初どうすべきか迷った。へたに今外へ出て、易々と敵にやられるより、ここで待ち構えていた方が得策ではないか。私は、すぐに看守室の方へ向かった。武器らしきものは何一つ、置いてなかった。ついに最期のときがきたか。私は、決心し、一歩ずつ常夜灯だけを頼りに、何か月ぶりかに見る外の光に向かって歩いていった。かなりの距離があった。
 軍需工場や弾薬庫は、無残な姿になっていた。
 なるほど、ここは、弾薬庫の倉庫の一つが入り口になり繋がっていたのだな。私は新ためてそんなことを、今となっては驚くべきことでもなく、さもありなんといった気持ちで漠然と受け止めていた。
 囚人たちは、そんなに時間を隔て出ていったわけではなかったのだが、既にそこには誰一人いなかった。坂本の姿も消えていた。私は、一人取り残される形になった。
 とにかく情報を仕入れよう、私は、人の姿を求めて歩いていった。
 木村さーん、という聞き覚えのある声が、遠くからした。坂本だった。私は、爆撃によって飛散したことを如実に物語る鉄屑や折れ曲がり無残に形を変えた鉄線を避けながら、彼のいる方へ歩いていった。傍までいくと、彼は戦争が終わりましたよ、木村さん。日本は負けたんです。たった今、陛下のお言葉があったそうです、そう言った。
 私は、無言で立っていた。いや、少しでも動こうものなら、直ぐに膝から下が折れ曲がり、その場にへたりこんでしまいそうだった。『日本が、……負けた……』私には、信じれなかった。信じろと言うほうが無理だった。しかし、これは事実なのだ。すぐに連隊の仲間たちの顔が浮かんだ。やはり駄目だったのか。私は、地下壕の中で質問したように、また坂本に訊ねた。おそらく日本が絶望的であること、玉砕したことを坂本は答えた。
 『玉砕……、自分がここで穴を掘っているとき、連隊は玉砕したのか』
 私は、坂本の制止も聞かず、また弾薬庫の入り口から地下壕へと入っていった。『確か穴は、まだ途中だったな……』私は、そんなことをぼんやり胸に思いながら、あの薄暗い閉ざされた地下壕へ戻っていった。
 それから私は、死んだようにして掘った。ただ夢中で。波の音は、かなり前から、私がここへ連れて来られたときからしているのだ。やがて、どこかにこの穴はとどくに決まっている。だが、私の鼓膜に響いていたあの波の音は、まさしく幻聴だったかのように静まり返り、無理に聞こうとすれば、まるで、さっき久し振りに外で聴いた蝉の鳴き声がそれだったのだといわんばかりに私の頭全体に入り込み、内側から一杯に締め付け苦しめるのだった。
 寒かった。躯が、足の先から手の指の節々に至るまで、夏だと言うのに、酷い寒気をおぼえ、それなのに蝉は波の音に変わり鳴き続けた。私は、いつのまにかそこに堪え切れず、倒れ伏した。
 それから十年後、私は、その穴の上に立っていた。岬だった。そのわずか数十メートル下には、我々の掘った地下壕が眠っていた。なんでも来年には、地盤沈下の恐れがあるため、発破をかけ、崩し、入り口もセメントで埋めてしまうということらしかった。私は、その上に立っていた。
 灯台があった。見事に破壊され、強風によってもぎ取られた木の株のように根元だけを残した灯台。その灯台が、おそらく戦火から逃れ、まだ無事だったころ照らしつづけていたサーチライトの光の先に私の行くはずだった南洋の島があった。私は、その下で灯に照らされることなく穴を掘りつづけていた。
 兵士たちがいた。
 駆逐艦の常備する内火艇から下り立ち、今、島に着いたのだと最後尾を行く古参兵が振り返り説明してくれた。私は、なぜか、いつの間にかその後ろにいた。
 海岸を過ぎると、ぬかるみの激しい道に出た。やがてそのぬかるみからジャングルになり、大休止をとっている間に出した斥候群が、交戦中であることを間もなく知った。兵士の顔に緊張ともいえぬ重い何かが流れた。我々は、白兵夜襲をもって攻めることだけを念頭に置いておけばいい、今度は支隊長がそう鼓舞した。
 我々は、夜がくるのを待った。深い帳が下りたとき、一発の信号弾らしきものが上がった。敵に発見されたのだ。いよいよ攻撃のときは来た。我々は待ち伏せ態勢をとった。私も慌てて、後方で同じ姿勢になった。
 敵の猛烈な射撃によって火蓋は切られた。
 我々は、じりっじりっと匍伏前進をつづけ、または後退を余儀なくされ、応戦していった。速射砲の地に唸るような轟音が響いた。兵士が、敵陣の正面に出るたびに、折り重なるように倒れていった。それでも支隊長の進めの命令に変わりなかった。
 倒れた兵士に見覚えのある顔があった。飯盒を失くしたとき私が庇った男だ。私が抱き上げると、彼の顔半分は、吹き飛ばされてなかった。死傷者は、あとをたたない。どこからも闇の中のいたるところから呻き声が聴こえ、それが啜り泣きのようになってやがては消えた。稲光が走り、やがて、天候悪化とともに豪雨が激しく降り始めた。密林の中は、泥濘化し、雷雨の中、倒れた兵士だけでなく負傷した兵士までが、土中に没していった。砲撃は一段と激しさを加え、夜が明けるまでつづいた。明るくなると、射撃の精度は上がる。敵の迫撃砲の火力は物凄く、無尽蔵と思われるほどの弾薬の幕の前で、我々の連隊は動く者がほとんどいないほどだった。すべて腕や足がちぎれ、躯がねじれたように倒れていた。支隊長もその中にいた。
 ところが、一人だけ、動く者がいた。それが私だった。私は不思議なことに激しい射撃と降り注ぐ砲弾の中にあってさえも、傷一つ負っていないのだった。まるで、弾の一発一発が、私の躯の中を擦り抜けていくように、私の目の前を飛び散っていく肉片や、応戦もこと絶えたこちらの陣地の中にあって、茫然と立ち尽くしているのである。
 『おい、俺を撃ってくれ。俺を撃て。俺はここにいる。俺は敵だぞ』
 私は、叫びながら、敵の方へ向かっていった。それども、砲撃音だけ大きくなるばかりでついに私は、死ななかった。
 波の音がした。気づくと私は、岬に立っていた。
 戦地ではない、ここは、戦争が終わりやがて十年が過ぎようとしている岬だった。おい、木村。同じ役場に勤める、同僚が後ろに立っていた。この灯台の残骸も、取り除かなければいけないな、そんな言葉に私は、黙っていた。相手は、私の沈黙を察したらしく、言葉をその先つづけようとしなかった。私は、少しずつ失くなっていくことを、反対に、呟いた。
ここが、私にとって思い出深い場所だったことを相手は言い、私は一瞬怒気を含んだような声になった。
 幸運の丘だよ。ここは、俺にとって生き延びることのできた、幸運の丘だよと、私は、打ち寄せる波の飛沫を見ながら、吐き捨てるようにして言った。
 手記は、そこで終わっていた。
 私は、店を出てもう一度、岬へ行きたくなった。幸運の丘を見てみたくなったのだ。レジで会計を済ませた私は、足早に車に乗り込んだ。
 車窓は、締め切って行った。冬が近い。もう風を受けて走る季節ではなかった。
 少し厚手のジャンバーや、スカートを履いた人々が街中では、多く目にすることができた。目の前の情景とは別に、信号待ちしているときも、私の頭からは、あの手記に記されてあった生々しい有様が離れなかった。私は、急いだ。
 海岸が近くなるにつれ、私の気持ちは落ち着いてきた。もいじきなのだ。もうすぐあの幸運の丘へいける、そう思った。例の坂を一挙に登ったときも、私は少し見覚えだしたその景色をほとんど脳裏に置こうとはしていなかった。
 幸運の丘に着いた。
 私は、車から降り、季節が移ろいでいくことを如実に示すように、今度は少し色が褪せ葉がこれまでと比べると幾分小さくなったような雑草や、それを上から蔽うように生い茂った檪の中を、階段を一段一段踏みしめ歩いていった。
 岬の全貌が見え始めたとき、私は、思わず目を瞠った。
 人がいたのだ。
 何人も、横たわり、こちらを見ていた。倒れ込み、躯を前へ投げ出している。その目はどれも昏い。ただ、不思議なことに、塔は、そこにはなかった。
 私は誘い込まれるように人の倒れているその塊の中へ入っていった。夢の中で見たように、私は少年ではなかった。
 彼らは、ううっ、とも、ああっ、とも人の声かそれとも波と波とがぶつかり、深い断崖の下でその音が揺れ、木霊し合っているのかわからぬ、そんな地の底から湧き出ているような叫びを上げていた。傷ついた人たちの中を歩きながら、自分の今いる場所から少し離れた向こう側に、悄然と一人立ってこちらに近づいてくる男がいた。
 「お前は、敵か?」すかさず訊いて来たその男の声に、私は、いいえと答えようとしたが、すぐに止めた。
 「俺を殺してくれ」男は、叫んだ。「俺を殺せ、殺してくれ……」
 しかし、私が尚も黙っていると、ついにその男は、人々の中を止むに止まれぬ声を絞り出しながら、両手を上げ断崖へ走りだした。万歳のまま、底知れぬ闇の中へ消えていったのだった。
 『木村さん!』私は、名を呼ぼうとしたが、それも途中で思い止どまった。それほど男の決意は堅そうに見えたのだ。それに、その男が果たして、本当に木村だったのか何とはなく疑わしくもあった。
 岬の上にも闇が迫ろうとしていた。
 冬が、確かに来ているな、私は思った。
 男の叫び声とともに、人々の顔は、既にそこから消えていた。

コメントはまだありません

TrackBack URL

Leave a comment