次の日の晩、佐伯は家にかえってから妻に、退職願いのうすっぺらい紙を見せた。
「これをだすつもりだ」
何度も話しあいはしてきたはずだった。そのたびに、冷静にきいていた妻もついにはヒステリックになり、ちょっとした言葉じりでお互いをせめあうことも多くあった。悪循環であることはわかっていても、おさえることができない。理性で感情を抑えることの難しさは充分わかっている。だからこそ、あるときから、佐伯は自分のやり方に限界と強引さを感じ、わざわざ苛立たせることもないと、ひと月ほど前から退職のことは口にださなくなった。そしてついに期日の前日になってしまったのだ。
妻は、突然一枚の紙を目の前に突きつけられたとき、さすがにショックだったのか、顔色をかえ、たちまち涙声になった。
「どうせ、私がなんといってもだすんでしょう」
「いや、だから、こうして見てもらって、おまえの考えを聞こうと思って……」
「でも、やっぱりあなたはだすんでしょう」
佐伯は黙っていた。かれの今、出すにあたっての思いをまたひとつひとつ説明することより、それを打ち砕く意見があればそちらの方がほしかった。目の前にそれを開いて見せてほしい。仕事をやめてはならぬ理由が、今、自分にほんとうにあるというなら、そっちの方が、今、知りたい。かれは願うような気持ちだった。
次の日の朝、出勤まえに、昨日の夜から食卓のテーブルに置いていた一まいの紙切れを、佐伯は、昨晩と同じようにうちふるえる体をおさえている妻の目の前からかすめとると、玄関から出て行った。
テーブルにすわり食事をしていたふたりの子どもは、そんな佐伯と妻のやりとりをポカンと見ていた。