「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『ダスト・イマージュ』/その六

 里子にそう言われてみれば、ぼくにしても篠見の前学期の後半に見せた行動は、少々合点のいかないことが多かった。
 事実、篠見はぼくにも金を借りにきていたのだ。額は五千円で、さして大した額ではなかったが、他の生徒には言わないでくれ、馬鹿にされるからと、使う目的も明らかにせずあれこれ予備校のことを日頃の篠見からは想像もつかない恨みめいたことを込め、山田喜代美や久本とかとは、付き合わない方がいい、うちの生徒はいろんな問題起こすから大変だ、あいつらはやめとけと憑かれたようにしばらく話し込んで帰って行ったのだ。そのことも、そのときのぼくにすれば、金を無事借りられたことからの安堵感がそう言わせているのだろう程度に考えていたのだが、どうも振り返ってみれば、そうではないらしい。篠見の表情は、確かに疲労の色がうっすら見えていたし、噂に聞くと結婚に備え、今居る四畳半の下宿を引っ越し、コーポに変えることも性急にせねばならぬこととして差し迫っていたふうなのだ。
 「でも、そう考えていったら社長が一番わるいんじゃなのか。篠見先生にちゃんとやるべきものをやらないから」
 ぼくにそう訊かれ、
 「まあ、そうなんだろうけど」
里子もさすがに困った顔になった。ぼくは、しかし、ここで佐伯からたまたま聞いていたもう一つの話のことも里子には黙っていた。それは、篠見が既にかなり多額の借金を社長に肩代わりしてもらっているということだった。しかもその借金の肩入れは、今の予備校を二年前つくるその時点で、どうやら篠見を雇い入れる条件としてあったらしい。篠見自身、大学を中退しており、自分での塾経営などにも失敗し、デパートでアルバイトをしながらその返済に苦心していたとき、たまたま友人の紹介から今の社長が大検専門の予備校経営に乗り出すことを聞きつけ、それまで貿易関係の仕事をやっていた関係上、塾分野に関しては素人の社長の相談にのったらしい。そのときはどんな内容のことが話され、取り決められたのかは分からないが、恐らくはそう少なくはない借金を社長が取り敢えず肩代わりするかわりに、篠見にはかなり過密なスケジュールのコマ数をこなしてもらい、月々の賃金からきっちりと支払ってもらうということが行われていったのだろうし、それぐらいが大体の相場だろう。実際、篠見の給料からは、決して少なくない額が、毎月、会社名義で天引きされていたというのだ。
 「とにかく、私は辞める。もし京子が少しでも引っ掛かることがあるんだったら無理しなくったっていいのよ。彼女にもそのことはちゃんと言ってあるんだから」
 里子のやろうとしていることをぼくはできるだけ認め、受け留めることに努めることが今であればできるような気がしていた。それがたとえ嫌にならない範囲を僅かに越えたとしても、今のぼくにとっては、さほど差し障りとしては感じとれないものがあったらしい。外から見れば里子のやろうとしてることは、ある意味で下らないことだろうし無駄なことでないわけではないのだが、そのまま笑ってしまえるほど促えどころのないものとも思われなかった。里子にとって、これは、これまでとは違った変化かもしれないし、それは少しづつ契機を持ち徐々にではあるが里子自身の意志をそこに挾み込み今の結論に至ったのに違いないだろう。二人が大検予備校で知り合って早いもので四か月目になろうとしている。変化は、ぼく自身にもきっとあるに違いない。
 面接は、比較的地理的にだれでも知っている喫茶店を、相手に前もって電話連絡しておき、行う手筈になっているのだと、里子の家を出るときぼくは彼女から聞かされた。
 それからしばらくして、ぼくが、里子と会わなくなったのは特別理由があったわけではない。その後里子自身どういうふうに暮らしていたのか、例の家庭教師の件がうまくいったのかさえ、ぼく自身あまり気にしていなかったし、彼女の家に行って話を詳しく聞いたこともなかった。
 そんなある晩遅く、ぼくのアパートに里子から電話があった。受話器を取るといつもの彼女自身の声ではあるがその中にも、いかにも久し振りに掛けてきているように少し奥まった響きの沈まりが底を流れていた。
 「もしもし、亮一君」
 その声に、ぼくは記憶というにはまだ新しい、咄嗟ではあるが、ある種の肉親に近いような忌むような拒否感を覚え、それを慌てて抑え込む形をとりながら反射的に揺さぶられた感覚で呼び戻された言葉を使って答えていた。「なんだ、里子か。今どこからだ、家からか?」里子は、それにはすぐには答えず黙っていた。その反応に、ぼくは、どうも奇妙な、未だ知らない相手の最近の生活の一部が予感され、次にどんな言葉を発すべきかをためらわせた。
 「家庭教師の件、うまくいってるのか」
 それに返ってきたのは甲高い嗤い声と、すぐに低まったうまく滞らせるにも滞らせきれない、底の隙間から噴出するしかない息と、それにとりまざった物狂わしく揺らぎ押さえ付けてくる圧迫だった。
 「はっはっはは……、へえ、心配なんだ、私のことが……。あたりまえでしょう。うまくいってるに決まってるじゃない」
 「どうしたんだ? 変だぞ、いつもと」
 「変は、お互いさまでしょうに。バーカ」
 ガチャンという音が鳴ると同時に、ツーツーという断続的な発信音が受話器の向うから聞こえだしたとき、一瞬、その向こう側にあった里子の像が動き、ぼく自身の目の前で裂けたように思えた。視界が消え、またすぐに戻り、今度はさっきまでと違い紫がかった色になった。今すぐに里子の家に行くべきかどうか、ぼくは、戸惑った。外にでると空気が思っていた以上に冷え込んでいた。ぼくは、アパートのすぐ前の道から左へ入ったわりと大きな通りへ出てタクシーを拾うと、里子の家のある町名と目印になるガソリンスタンドの位置を運転手に告げた。運転手は、ああ、例の轢き逃げがあったところねと、最近の事故と結び付けて頭の中に置いているのか、その町へ向かう途中にあるやや勾配の急な見通しのわるいカーブの話をした後、ぼくが黙っていることに遠慮するふうになり、それからはそのカーブに差し掛かったときも、目的地に着くまで一言も喋らなかった。
 里子の家は静まり返っていた。開き戸を二度ほど大きく叩くとさすがに深夜であるだけに辺りに響き渡り、ぼくにとってもあまり良い気はしなかった。三度目を叩き、里子の名を呼ぼうとしたとき、玄関口に向かって人が歩み寄ってくる気配がし、明りが灯され、三和土に降り立ち突っ掛けの擦る音と一緒に、ガラスで仕切られた戸の向こう側に人気が立った。
 「俺だよ。亮一だよ」
 その声に、相手は押し黙ったまま、機械的に鍵を開けた。

コメントはまだありません

TrackBack URL

Leave a comment