「さっきは、ごめんなさい」
声は、既にいつもと変わらぬものに治まっているようだった。ただ、髪が乱れたふうに無造作に縦に流され、顔色が明りのせいか艶立ったものが感じ取れず、今まで寝てたにしろ起きてたにしろ、躰の調子自体けっしてよくないことが見てとれた。
「最近、ちゃんと寝てるのか」
里子は、それにも情けなさそうに首を横に振った。それ以上はそこではなにも喋ろうとしない相手に従われ、廊下を渡りぼくは、里子の部屋に連れていかれた。ウイスキーの瓶とグラスがその位置をそれ自身そこでいいのかどうか分かり兼ねているように、危なげにテーブルの上と下とのわりと毛羽だった絨毯の上に別々に置いて在った。「亮一君も飲むでしょう」里子は、台所からグラスをもう一つもってくるとそれに半分ほど注いだ。琥珀の液は氷が入るとそれとの境目に気流のような淡い層をつくり、滑らかに溶け入っていた。
「さっきあんまり様子がおかしかったもんで。何があったのか、よかったら話きかせてくれないか」
「お母さんの居所がわかったのよ。お母さん、今北陸にいるんだって」
里子の母親は、父親が死んだ後、病院で付き添い婦をしばらくしていたのだが、そのとき知り合った病院の看護士と逃げ、これまで行方をくらましていたのだ。相手は十歳年下だった。ただ、いつも月々のお金だけは最低限申し訳程度に銀行に振り込まれてはいた。妹は、里子にとっては母方の伯母に当る家に預けられており、里子が、母親と妹がいなくなって一人でこの家に暮らし始め、この家を守る形となって頂度半年目になろうとしていたのだった。
「お母さん、ほんとうに勝手よ。若い男とやりたいことやって。私や妹がどれだけ苦労しているのか知らないんだわ」
ぼくが黙っていると、そうせずにはいられないとばかりに吐き捨てるように、「でもあんな人、生きていようが死んでいようが、私の知ったことじゃないけどね。私、男と逃げたときからそう決めてたの。あの人は私にとって、もう親でもなんでもない、ただの赤の他人だって。お金だけ今の額でもいいからきっちり送ってくれたらそれでいいのよ。そう考えようって、私思ってたの……。でも、それ正解だったわよね。だって実の娘がいるっていうのに、居場所をこっちにに直接知らせないで、伯母さんの方に知らせるんだから」
「家庭教師の方はうまくいってるのか」
ぼくは、そう意識していたわけではなかったがそこから話の内容を結果的にズラす対し方になりながら訊ねた。
「京子にとっちゃ、楽しくてしょうがないんじゃない」それには、あっけらかんとした答えが返ってきた。例の新聞の広告でやってきた学生と井芹京子が、教える側と教えられる側を離れ、今は付き合ってるというのだった。お互い、たまたま出身地が同じ県だったことから意気投合し、楽しくやっていると言う。だが、里子が話した京子についてのことはそれだけではなかった。