「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『島』・その十七

               島
 その夜、彼は宿に帰ってから寝つかれなかった。いよいよ明日、この島を立たなくてはならないのだ。しかし、その決心がまだつかないでいた。彼は、布団から跳ね起き窓の外を見た。頂度目の前のがらくたに囲まれた小道のその上に、土手に隠れるようにしてケンゾウの家があるはずだった。白蝶の翔んでいる姿を、その時は見ることはできなかったが、おそらく闇に散らばっている光がある程度集まらないことには、羽は羽としてかそけくはばたき飛び立つ効力を持とうとしないのだ。彼は、その原理がなぜだか今だったら素直にのみ込める気がした。彼がしばらくそこを見ていたとき、小さな光がその土手を降り下ってきた。ゆらゆらと左右のバランスを時折り崩しながらも、それでも馴れた足付きで、下って来る速さとその辿る道筋に無駄を感じさせない、いわゆる土地の者の動作の運びがあった。ケンゾウの母親であることは、少し明るみに出たときすぐわかった。
 彼は、母親が宿の前を通り過ぎたころ階下へ降り、その後を付けた。母親は、まさか昼間訪問した男がその背中を追ってきているなどとは、つゆ思っていなかっただろう。そのことを裏付けるかのように、がらくたの中をある一つの方向へ向け、たまにふらつきかかることはありながらも大旨、足場を間違うことなく流れるようにして進んでいった。母親の行く方向は倉庫のようだった。息を出来るだけ小さく足音を余り立てないよう気を使いながら、彼は、自分についにここへ来た目的である、なぜ島が沈まないのかその仕組みを知るべきときが来たようなそんな気にもなっていたが、少しずつ島のことを知るにつけ反対に、心が段々とはっきりしたものから、その中にあった情景が真っ白に消され、それに乗じ自分の躰が、がらくたか倉庫にでもなったようにこのまま静かに島に溶け入り馴染んでいってしまうのではないか、とも思えた。
 彼は、そうなることが半分怖かった。倉庫に着くと声がした。それは、彼が予想してた以上の多くの声だった。驚いたことに、光が一つ、また一つと民家のある方角から増えてきている。彼は、がらくたの陰に身を隠した。
「ケンゾウ、あんたどうして」
母親の声だった。
「もう少し待ってくれりゃ、母ちゃんがちゃんとそっちへ行ったのに」
 母親の向こうには、ケンゾウが立っているらしかったが、その声はしなかった。別の場所からも、囁くような、話しかけるような声が次々に聞こえてきた。それは、ほとんどが若いか、もしくはせいぜい四十そこそこの声ばかりだった。十中八九の者が、啜り泣きともつかぬか細い声で闇の中をある一定の調音で満たし、もしもその中に見えない糸があるならば、それを何本も同時に揺らしているようだった。
 「かあちゃん、とおちゃん、おかげで元気にやってるよ」
 息子とその両親らしかった。その隣では「お前の足はどうだい。もう歩けるようになったかい」父親が、娘と話していた。娘はどうやら両足が不自由らしい。
 「おれも、そろそろそっちに行こうと思ってる。子どもたちが帰ってくれるそうだから」別のところでは老いた夫がその妻に声をかけ、「寝たきりじゃ、つらいことばっかりだろうしね。せめて島のためになってくれて助かってるさ」また他では娘夫婦がその父親と語っていた。
 「白蝶が増えてきてから、島は潤ってるんだ。沈む心配もないしね」
 「タケダさんもあんな真似しなけりゃよかったのに」
 ケンゾウの母親は、タケダのことも知っているらしく、ふいにそんなことをつぶやいた。彼は、ことの成り行きをしばらく見守っていた。会話がなされていた。目の前にいる影のような人達との交信だった。それは肉親であったり、知り合いであったり様々だったが、一つだけ言えるのは、全員が島の住民たちであったということだった。タケダや、母親や、その子トオルもその中にいるはずだった。彼は一人、この島に来て最も強く、この時、自分が別の島からやって来たただの旅行者に過ぎないことを意識した。
 灯りは次々とやってき、島の人々は倉庫の前で、暗い押し入れから久し振りに箱詰になった荷物でも取り出すかのように言葉の所在を探りながら、最初がはっきりすれば後は勝手に思いが繋ぎの役目を果たしてくれるというように、影に向かって話しかけていた。些細な日常をさも手短に報告し話しながら、それが済むとまた闇の中へそそくさと帰っていっているのだ。最後の灯りが遠くへ消え、島の者が一人もいなくなったとき、ようやく彼はがらくたの陰から姿を現し、倉庫の方へ近づいてきた。倉庫は、今の彼自身の心を映し出すかのようにその壁面を下の方から徐々に暗闇の中へ突き出していた。闇の先に尚壁がつづいていることはわかりながらも、なぜかだか今彼には、そのままその壁が宙空に押し挾まれながら溶けいってしまっている気がした。

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