「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『島』・その二十

 半鐘がようやく鳴り出していた。
 だが、幸いにも強い風が火に味方した。風は、火を煽りながら、がらくたと炎とをこれ以上できないというほどに睦まじいものにさせていた。風に勢いをつけられた炎は、がらくたをのみ、がらくたは炎を包み込みながら、赧い衣裳を着るとそのまま逃げ去り、また新たに地表に出てきたがらくたにその席を譲っているようだった。港に立ち尽くした彼は、船を燃やそうかどうか、それさえ戸惑うほど、火炎は今のままで充分すぎる、と思えた。
 彼は船に飛び乗り、そのエンジン部に火をつけるため、リュックからノートを掴みだしそれを燃やした。タケダらもらったノートをそうやって利用することは前々から考えていたことだった。その火種を船の中でも最も燃えやすい油の染み込んだ甲板辺りに、しかもエンジンに引火しやすい場所に投げ入れればすべてはうまくいくのだ。
 ところがそのときだった。
 誰かの叫び声が比較的まだ遠くの方で、しかし確かに今やろうとしている彼の行為を咎めるように荒立った調子で耳元にとどいた。島の者に見つかったことは確かだった。彼はすぐに計画を切り変え、咄嗟に赧い炎を立てページを捲りながら燃えているノートをがらくたの方へ投げ捨てると、船から飛び下り岸壁に結び付けてあった纜を解き索輪を船首に投げ入れた。そしてまた船に乗りディーゼルのエンジンを掛けた。勢いよく二度、三度紐を引くとエンジンは、軽快というにはあまりにゆったりとした音を響かせて、それまたゆっくりと厳粛に動き出した。彼は、海へ逃げた。沖へ行くに従い、少しずつ島の全容が見えてきた。彼は、心なし倉庫のある南の方へと舵をとった。がらくたが、確かに、さっき彼が火を起こした辺りで激しく燃えていた。
 彼は、同時に島全体が赧い炎を吹上げ焼けるのを見ているような気になった。それはタケダの残した日記とその記憶を本当に焼くことであり、今となっては彼自身、それとともに行動した彼のこの島で経験した記憶を焼き尽くすことでもあった。
「島は、やがて沈むだろうか」
 彼は、思った。
「炎が鎮まり、いつもの平穏を取り戻した後、時間をかけ、ゆっくりと、しかし確実に、研究室で見た、あのグラフィックのように、地質の構造に抗うことなく……」
 それから目に映るものを彼は、実際のところ、真実なのか彼自身の描いた幻影なのかはっきり言い切る自信はなかった。 炎の中に時折り、散乱する火の手の中でも大きな焚燼が舞い上がっていた。火焔の先は曲がりくねり、なにやら蠢く生き物のぬらぬらとした舌先のようにもそれは見えた。
『白蝶だ』
 彼は、心の底で叫びともつかぬ言葉を発していた。
『白蝶が、躯を炎に包まれ翔んでいる』
 白蝶たちは、襲いかかる火の手から逃げおおせるかのように、蝶道を突き進んでいるようだった。そしてその先には三つの倉庫があった。倉庫に舞い降りた蝶たちは、力尽きたように一斉に倉庫の壁や天蓋に身を横たえていた。炎は倉庫に燃え移り、三つの倉庫はたちまち火焔の宿る棲となった。「倉庫が燃える、まさか、あの倉庫が……」彼は、船をゆっくり岸の近くで旋回させながら、その場でじりじりと焼け尽くす炎を目の当たりにし、まるで自分の体そのものが、煮え滾る烽火の中で身悶えしている一個の肉の塊のようになって熱く火照ってきているように感じていた。知らぬ間に体の中心部から止めどなく流れ出してきている汗を掌で拭っていた。
 燃え盛る島の中腹から湧き立つ炎の中に、タケダや、不具の妻や、その息子トオル、それに島の住民であったケンゾウと多くの倉庫に消えていった老人たちの顔が泛かび、彼がそれを見定め静視しようとした瞬間、すぐにまた、それは消えた。
 遠くのほうからは、忘れ去られたようにさっきの半鐘がまだ鳴り響いていた。彼は、その鐘の音といっしょに波の音も併せて聴きながら、それがやはり彼の描いた勝手な幻影であるという証拠のように、なぜか自分の中にある空洞をその時、強く感じていた。
                                    (了)

コメントはまだありません

TrackBack URL

Leave a comment