「共」に「生」きる。 in 阿蘇

游人たちの歌・第一章 幼い日の記憶と体験、そして北九州での出会いを経て 一、有明の海の底から

私は、一九六一年、熊本と福岡の県境、荒尾に生まれた。高度経済成長期の幕開けであり、翌年には、「総資本」対「総労働」という嵐のような激しい争議が、隣接した大牟田とともに城砦を奪い合い吹き捲った。私は言わば、その燃え滓ともいうべき数多くの破片の散らかる中、鈍い光さえ感じ取れぬまま、生きてきた。
 私の通った校区にも、宮内社宅と大平社宅という炭鉱住宅があった。そして私を幼稚園から小学までの八年間、いじめぬいたヤマダもその住宅にいた。
 あれは小学四年のときだ。私は、一度、彼の家に連れていかれたことがある。縦横真っ直ぐに碁盤の目のように配され、軒先を並べた家屋の群れは、それ自体明らかに別の町のようだった。彼はその炭住に入るやいなや、さらに態度を大きくし自信に満ちた姿になった。私は、いよいよ逃げ出すにも容易にできぬ地点にきたことでそわそわし、内心胸が張り裂けそうだった。実際に、何をされるかわからない、そう思った。
 その数日前、私は彼に歯向かい、「帰るな」というのに黙って家に戻っていたため、次の日、朝学校でコンパスの針で腿を刺されるという目にあわされていた。そのとき教師は、私が泣いているのに気づき理由を聞いたが、さらなる仕返しが怖く黙っていた。その日はそんな彼が、こちらの改悛ぶりを試すテストだったのかもしれない。彼は開き戸の扉をガラガラっと勢いよく開け框にランドセルを投げ出すと、突然糞がしたいと言い出した。私はそのひと言に逃走のチャンスができた、そう思った。まさか便所にいるときまでこちらに目が注がれることはない。まさしく本能的なものだった。目の前の危険を避けることに必死で、後の報復を考えていなかった。いや、それほど状況は切迫していたのかもしれない。私はもしかすると彼にこの家で殺されるのでは、そう思っていたほどだ~。

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