「共」に「生」きる。 in 阿蘇

游人たちの歌・第一章・二、茜さす地、北九州へ

高校を卒業後、私が選んだ場所は、かつて鉄鋼の街として、荒尾、大牟田と同じく、この日本を支えてきた北九州だ。
 熊本にいるとき、いじめにあい、もっぱら内に引きこもりがちになり、人との関係をつくれずにいた私は、むしろこの北九州の地で、己とは何かを探る基盤である「自我」を獲得する契機を得た。とくに今、「夢屋」をやっていて、私の中に障害者とかかわる下地をつくったボランティア組織「障害児の遊びを考える会」、通称「遊びの会」なくして、今の私は語れない。
「遊びの会」は、一九八一(昭和五十六)年に正式に設立した。
 中心となったのは、当時、生活団で幼児教育に携わっていた柴原良子さんと北九州市の外郭団体、社会福祉事業団に勤務していた森本康文さんである。二人が、社会福祉法人「あゆみの会」の在宅訪問指導員としてボランティアで出会ったことがそもそもの出発だ。一九七九年に施行された障害児の就学義務化に伴い、時代はまさしく分岐点に差しかかろうとしていたころである。
 それまで、肢体不自由の幼稚園児のサービスがなく、通称「亀の子保育」で週に一度、療育的活動をしていた柴原さんは、既に二足の草鞋を履く身でありながら、法改正にともない、小、中、高までの児童、生徒の余暇をどうすれば充実したものにできるか、森本さんとともに検討を始めていた。
「とにかく、日頃、外に出ることの少ない障害をもった子どもたちに、より多くの場所や出会いの機会を与えたい」
 二人は、東筑紫短大ボランティア部の学生と家庭訪問活動を行い、本人や親の思いの聞きとりをし、家庭的な雰囲気の中での、月一回の遊びの例会を始めたのだった。
 在宅から就学という形を変えての障害児の社会参加の意識の波は、たちまち加速、参加者は増加の一途をたどっていく。
 たちまち数十名に膨れ上がり、東筑紫短大のボランティア部だけの力を借りての運営だけでは、ままならない状況となり、思いきって会を組織化させ、より綿密な計画と準備のもとに、月一回の例会を行う形に変更していくことになるのだ。
 だれもが入りやすく親しみやすい雰囲気を大事にしながらも、『母子分離』『地域社会に根差した活動』『健常児との交流』という三本柱を掲げ、会が正式に発足して二十四年たった現在も、それは崩れてはいない~。
 

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