「共」に「生」きる。 in 阿蘇

游人たちの歌・第二章・一、阿蘇での新たな出発と『自閉症』という壁と向き合って。 一、一人の青年と始めた作業所づくり

一九七五(昭和五十)年、八月二三日、トオルは、この世に重度の自閉症児として生をうけた。熊本県阿蘇郡一の宮町立宮地小、一の宮中、そして阿蘇農業高校(現、清峰高校)を聴講生の形で卒業した後、阿蘇町の通所授産施設『くんわの里』へ通ったこともあったが、それが最も安易な選択だったと母親のマサミは、やがて気づくことになる。労働生産を基盤とした施設では自閉症の壁は厚く、彼の調子の波はますます落ちる一方だったからだ。しかも園生にひどいいじめにあったこともあり、家庭ではその鬱憤が暴力となってあらわれ、ほどなくそこも辞めざるをえない状況となっていた。家族の中で最もトオルをつきっきりで支援していた母親は、いよいよ息子ともども追い込まれていった。
 ある日、ひとしきり状態の悪い息子をなんとかなだめ、ようやく眠りにつかせようとしたとき、くたくたになった母親は思いつめ、彼が目を閉じしばらくしてから、胸に跨がり首に手をかけ心中をこころみようとしたことがある。
「殺して、お母さん」
 だが、疲れきった目をとろんと開け、抵抗もせず、掠れた声を上げる息子に最後の力は加えられることはなかった。
 当時、私は道路を挟んで数メートルしか離れていない宮地小学校に勤務していたのだが、トオルと母親の現実をかつて彼を小学一、二年で担任していた教諭で、人権教育を担当し同勤していた竹原ナホ子さんに聞いたとき自らの教師としての無力さに愕然とした。いや、教師ではなく人間としての無力さをまざまざと提示せられたのかもしれない。
 その後、私自身、少しずつトオルの家へ出向いては、様子をつかみ、家族と会話する中で、自分の生きる場所はむしろこちらの方ではないかと考え出していた。
 たとえ私が教師を辞めたとしても、その穴埋めは、毎年、多くの採用試験を受ける者で可能だろう。だが、トオルとその家族を支え、彼の生きる場所をいっしょにつくっていく者は見渡したところ、これからもずっとあらわれそうにない。
 北九州の地で学生時代を過ごし、ボランティア活動を通し、障害者と健常者がともに生きる空間に、豊かな思いを感じていた私は、教師になってからもどこかで、そんな場がつくれないものかと心の隅で思っていた~。

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