「共」に「生」きる。 in 阿蘇

第二話・歌舞伎は、三変化(さんへんげ)していたのですねえ。女歌舞伎や若衆歌舞伎をちょっとだけ見たかった、気もしますけど・・・。

歌舞伎、傾き、かぶき者
かぶきは歌舞伎ではなかったのです。かぶき者です。今で言うなら若いミュージシャンがド派手な格好でステージに立つようなものでず。
江戸時代の始めころには時代の変革とともにそういった男女が現れました。
有名なのが伝説で伝えられる「出雲のお国」、歌舞伎踊りの始祖と言われています。
出雲のお国は当時の風俗や世相を京都四条河原で、踊り大変な人気を博しました。
出雲のお国は出身も由来も詳しく伝わっていませんが、歌舞伎踊りの初めとだけは伝わっています。当時は女が主流の女歌舞伎踊りでした。
女歌舞伎が大流行すると、権力が安定した幕府は、風俗を乱すとの理由で女歌舞伎を禁止の対象にするようになりました。実際売春に走る女性もいたようです。
幕府が取り締まると次に現れたのが若いきれいな少年や青年が踊る若衆歌舞伎でした。しかし男色(ホモ)の対象になり、風俗を乱すという理由で、これも禁止されました。
そこで幕府に願い出たのが野郎歌舞伎です。
大人の男性が「ものまね、狂言づくし」のみにて上演するということで、幕府の許可を得ることが出来ました。これが今に続く歌舞伎の伝統です。
歌舞伎も京大阪と江戸では大きく流れが違います。
京大阪では男女の愛をからませながら、全国から産物や金が集まる商都らしく金銭をからませていくような、心中物や姦通物が大当たりでした。
江戸は全国各地から武士が集まる場所らしく、単純ながら英雄豪傑が活躍する芝居が当たりました。
元禄時代になると役者の地位も人気とともに高くなっていき、役者で言えば、江戸では市川團十郎。中村(猿若)勘三郎。京阪では坂田藤十郎などが、活躍する時代になりました。
一方では人形浄瑠璃も盛んになり、今の基礎をなす人形の三人遣いの発達も見られるようになりました。
江戸では市川團十郎は「江戸の守り神」とまで言われました。
 
 

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