「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『伝言』・その二


 
 ピアノの正式名称は、「クラウィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」。
 「弱い音から強い音まで出せるチェンバロ」という意味だ。
 一七0九年に、イタリアの職人バルトメオ・クリストフォリによって発明され、その後、改良に改良を重ね、一七八三年に、イギリスのジョン・ブロードウッドがペダルを考案し、音域も広がった。
モーツァルトの曲にペダル記号がないことから、彼がペダル付のピアノで作曲してはいなく、しかも当時まだ製造されていた黒鍵と白鍵の色が現在とは反対のものをある時期、使っていたとも言われている。
そもそも鍵盤の材料は、象牙と黒檀が用いられていたが、入手が困難なこともあり、人工物や合成樹脂が使われだし、肌触りや見易さなどから今の配置に落ち着いていった。
 もちろん、ピアノが徐々に市民のものになっていくには産業革命と、フランス革命に代表される市民革命、それに裕福なブルジョア層の出現が必要だった。つまりこの三つが長針や短針、秒針の役を担い、ある特別な位置で重なり合ったとき、ピアノは独自の道を歩んでいくことになる。
 なぜ、黒鍵と白鍵があるのか。七歳からピアノを習い始めた脩一は、そのことばかり考えていた。ピアノ教師に聞いても納得のいく答えは言ってくれなかった。材料の色がそのまま影響していたことを知ったのは、小五のとき、自分でパソコンで調べてからだ。だとすれば、どうして黒鍵を抜いたのか。やがて考えだしたのが、役割の入れ替えということだった。いったんシからドになるとき半音の位置が黒鍵から白鍵へ渡されることで、それまで黒鍵が果たしていた半音の上げ下げの役目が白鍵へと移り、黒鍵は白腱へ、白鍵は黒鍵へと姿を変える。そしてミとファの間に、再び黒鍵が消え、もとの役へもどるという寸法だ。    
 まるで黒と白の鍵が螺旋状にいったりきたりしながらぐるぐるとまわっている。
 脩一にとって、ピアノはいびつで立体的な生き物だった。
そんなピアノを父の宗治は遺品として残した。ご丁寧に黒鍵と白鍵を油性の塗料で塗り替え、しかもアップライトの開閉できる縦板にわざわざ細長い彫りで覗き窓を入れハンマーやダンパーの動きが見えるようにロココ調に細工までしていた。
 モーツァルトにでもなったつもりだったのだろうか。
 宗治は、付き合っていた女性が死んでから、彼女の形見のピアノを独学で弾き始めたらしく、十年後、肌寒い木枯らしの吹く去年の暮れ、五十ニ歳で死んだ。楽譜が読めなかった宗治は、いろんな冊子からコピーをとってきた譜面を切り貼りし、巻紙のように横に貼り付け、音符にはすべて読み仮名をつけ、広げれば横一列に見渡せるようにしていた。
一枚一枚には、わざわざ制作した年月日がつけられていて、作曲者だけでなく、演奏者の名前まで記されているものもあった。クラシックはベートーベンの『月光』に始まり、ショパンの『別れの曲』、リストの『ラ・カンパネルラ』。ジャズではセロニアス・モンクの『ラウンド・ミッドナイト』、ビクター・ヤングの『マイ・フーリッシュ・ハート』これはビル・エバンスもので、マイルス・デイビスの『マイルス・トーン』、マル・ウォルドロンの『レフト・アローン』、デューク・エリントン楽団の『テイク・ザ・Aトレイン』に至っては即興の部分も含め、ちょうど一七十五センチ、まるで計ったように脩一の背丈とおなじ長さだった。
 脩一は、宗治が最後に暮らした掘っ立て小屋の床にそれを敷き、CDをかけ、横に寝てみた。築二十年たっているため、腐りかけた柱や根太が風が吹くたびに軋み、耳障りだった。目の前に並んだ四分音符や八分音符がパラパラと崩れていく。足先から頭までブルックリンからハーレム、マンハッタンへとパンタグラフに火花を散らした地下鉄が走りぬけていく感覚とは程遠い。
 ポップスは数限りなく、ビートルズの『ヘイ・ジュード』『レット・イット・ビー』『ノルウエイの森』に始まり、『イマジン』といったいかにもイントロがピアノ曲のナンバーや、レイ・チャールズやビリージョエルといった弾き語りに加えクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』まであり、歌謡曲、童謡まで入れるとその数は百二十曲。ピアノの上に色褪せた外紙を晒し赤煉瓦で抑え込まれ、窮屈に並べられていた。
 一年で十ニ曲、ちょうど一と月に一曲をこなしていったことになる。
 もちろん、宗治がそれらを全部弾けたはずはなく、とくにクラシックなど不可能といっていいはずだ。それでも、読み仮名がうたれた楽譜の中でも、『ラ・カンパネルラ』の最終章あたりは、僅かな隙間に音符と重ならぬよう鉛筆の芯で細めに音階が埋めこまれ、感動的すらあった。
もしかすると父は仮名をふることで演奏した気になっていたのかもしれない。そんな憶測が脩一の胸を過ぎると、一音符残さず、独特の楽譜がつくられていった理由がわからないわけでもない。
 山小屋は脩一にとって記憶にあるものだ。
 小学校の一年から四年まで、ちょうど小屋ができた翌年から四年間、夏休みになると一週間ほどを過ごすのが慣例だった。
「せっかく、お父さんが来いって言うんだから、行ってきたら」
両親が離婚し、どこか、父の話がしずらかった空気の中で、母の琴絵は、さりげなく言葉をかけた。
 軽自動車が離合できるかできないかの細い林道を一番手前の集落から二キロほど上ったところにぽっかり空いた十五坪ほどの土地にそれはつくられていた。山腹を削ることもなく、道から十メートルほど入り込んだやや傾斜した敷地は杉林に囲まれ、日差しもさほどない静かなところだ。
 山小屋が近づくにつれ、助手席の脩一はひさしぶりに父と会える喜びと同時に、いつも不安に駆られた。
 すぐ耳元で烏の鳴き声がした。ときおり梢を揺らし、生き物が枝を伝っていくのがわかる。鬱蒼とした林は葉の一枚一枚、脈の一筋一筋に湿気を帯び、夏だというのに肌寒かった。
 車窓から道沿いの土手を覗くと、褐紫色の不気味な花が何本も顔を出していた。正式名はマムシグサで地元ではヘビジャクシと呼ぶのだと宗治が教えてくれた。コブラの頭のような部分は花びらでなくつぼみをつつみこむ葉で、宗治はわざわざ車を止めて、ほら、これも同じだと黄色い花穂をつつんだドクダミの白い部分を指差した。
 それからおもむろに車から降りるよう脩一を促し、宗治はふざけたように大きな声を上げ、マムシグサの斑模様の胴体めがけ蹴りを入れた。するとあっけないくらいに簡単に茎は砕け、頭部と外壁は空中へと飛び散った。脩一も、宗治を真似、勇ましい掛け声をだしながら次々と苞を目掛け蹴り上げた。股関節が素早いスピードで真横へ移動すると、いかにも空洞といった脆い感触を靴先に伝え、シリコンのような皮が飛び散っていった。数メートル先を見ると、布切れのようにぐにゃっとした残骸がいくつも散在していた。
 小屋は、ほとんど荒削りの杉材を組んだだけの、ログハウスというにはお粗末なつくりで、木と木の隙間はセメントのようなものでふさがっていた。八畳ほどのフロアに台所があって、玄関から入ってすぐ横には中古で手に入れたらしい古いユニットのトイレと風呂が嵌め込まれ、浄化槽が埋められていた。水はボーリングして地下水を掘っていて、ポンプ小屋だけは基礎もコンクリが打ってあり、小屋よりもよほどしっかりしたつくりだった。当時、ピアノには何の細工もされておらず、もちろん鍵盤も普通の色の配置だった。脩一は、すぐに今習っているものや発表会のためのディズニーの曲などを弾いてみせた。宗治もそれがうれしいらしく、鼻歌交じりにいっしょにリズムをとってくれた。
 窓を開け、空気を入れ替えると、いつも事前に買い込んであった材料を使い、宗治が食事をつくった。脩一が麺類が好きだったこともあり、卵焼きやキュウリをそえて、中華そばやソーメンを手際よくだしてくれた。
 日が暮れかかると、部屋では、いつもは宗治の分だけかぶせてある蚊帳を全部広げ、そこへ布団を二つ並べ、脩一に好きな方をあてがった。網戸が破れていたため、隙間から虫がしきりに飛んできたが、山の高度や独特の地形が関係してか、カブトムシやクワガタなど大型の昆虫は皆無で、少し小型のカナブンや耳障りな声で鳴く真っ黒なカミキリ、枝毛のような脚で覆われたゲジゲジ、それに何度嗅いでも吐き気がしそうな匂いのカメムシといった、脩一にとってほとんど魅力を感じぬ虫ばかりが羽音を立てたり、這ったりして壁や窓際に出没した。宗治は平気で素手で払ったり、捕まえ、外へ投げ捨てた。
 夜の帳に包まれ、静けさだけが深々と迫ってくる頃、流れ星がときおり夜空の闇を横切った。寝たままの姿勢で縁側に目を向けた脩一が驚きとも興奮ともつかぬ声で、一本の光線を指差すと宗治は残念そうに首を横に振り、人工衛星であることを教え、光線の発し方や飛び方の違いまで説明してくれた。
 小学五年から、部活でサッカーを始めた脩一は、六年になるとピアノをあっさり止め、夏休みは練習や試合で忙しくなり、山小屋へも行かなくなった。宗治からの週に一度の電話も二週間に一度から、やがて月に一度へとかわり、高校に入った頃には半年に一度、学年の始まりや季節変わりに様子を尋ねるくらいになった。逆算すれば、その年に女性は死んだことになる。連絡が極端に減った時期ともちょうど重なっている。
琴絵が、その当時、そういった事実をどれほど知っていたかは、直接聞いたことがないので今もってわからない。

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