「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『伝言』・その四


 検証で多少、荒らされた跡の残る室内ではあったが、しばらく中にいた脩一は、意外にも少し気が楽になった。
アップライトの上に積まれた切り貼りの楽譜とピアノそのものの変化は思いがけなかったが、家財道具のひとつひとつがどこか記憶にあるもので、馴染み深い空気を醸していた。落とされていたブレーカーを上げると電気も繋がり、置いてあったラジカセでCDを聞いたことも大きいかもしれない。
 サッカーを始めて以来、十五年ほどご無沙汰になっているピアノも叩いてみた。
 黒鍵と白鍵が入れ替わっているため弾きにくく、思わず苦笑してしまった。まるで屋根と床が逆さまの家へ迷い込んだみたいだ。とりあえず、脩一も知っている『ヘイ・ジュード』をやってみた。
 Fの転回形のラドファを叩いてみる。ラの両端と、ドとファはそれぞれ右上に白鍵がきている。黒鍵だと、白鍵の圧迫を感じるのはG、B、Eのフラット、それにCのシャープだ。Eのフラットを基点に叩けば、Eフラットマイナーセブンを弾いていることになる。
だがそれも脩一のかってな思い込みが大きかった。色を入れ替えてみても決定的に動かないのは前後の配置と起伏の構造で、表面的な色彩に慣れればさほど難しいことではない。気を楽にして、C、Cセブン、F、Bフラットと黒鍵と白鍵を跨ぐコードに入ってみた。二度、三度、くりかえし同じフレーズを叩いてみる。ポールがシャウトし、ジョンが、リンゴが、ジョージが合唱するダー、ダー、ダー、ダダダッダーのサビの部分、FからEフラット、Bフラットへと移行していく、激しく高揚する場面だ。すると、指先から掌、肘、視覚に微妙な変化がおとずれた。つくりだされる聞きなれたリズムが底潮のように溢れ、変わらぬと思っていた鍵盤の構造上の凹凸や前後の位置関係が、突然、そのまま自分の肉体がすり替わるように移動した。逆方向、つまり後ろからピアノに向き合いキーを叩いている感覚がやってきて、肉体がハンマーや弦といっしょにピアノの一部となり、ロココ調の板の隙間から手を伸ばし、フロアへ向かって弾いている奇妙な倒錯感が襲いだしたのだ。最初、物珍しく不慣れな体験からくることを重々承知でやっていた脩一だったが、その変化は驚きだった。しかし、それとほとんど同時に動いていた指を力なくしなだれさせ、演奏をやめてしまった。
 脩一に噎ぶような感情が込み上げ、胸が一杯になった。
 小屋の外では、クヌギから落ちた枯葉が、地面の乾いた土の表面を重たるく舞い、風がときおり縁側のガラス戸の隙間から音をたて唸っていた。スギナの繁茂が土手際から徐々に迫ってき、光の差さない空間の中で、荒れた芝のようになっていた。
脩一は、その日は山小屋に泊まらず、一番近くのビジネスホテルに宿をとった。
 翌日、鈍よりとした曇り空はそのままで、相変わらず、底冷えした天気だった。地元の人によると、そろそろ雪になるだろうということだった。
 火葬を終え、白布の遺骨を手にした脩一の隣で、奈美はあれこれ気を回し、職員らに礼を言ったり、準備してきたお礼の粗品を配っていた。
 「ごめんなさい。余計なお世話かなとは思ったんですけど……」
 紙袋に入った黒い紙で包装された薄い小箱を十個ほど見せられ、前もって確認をとられていたが、彼女の甲斐甲斐しく動く姿は、充分過ぎるほど胸を打った。
 親のしでかした痴話物語の片付けをしている身内を憐れんでか、大方の人が好意的に接してくれた。もしかすると、長く生き別れになっていた姉弟のように見られていたかもしれない。それほどに奈美は脩一に対して、壁がなかった。
 帰りに彼女の誘いで個室のある和食のレストランに入った。
畳敷きだが、掘り炬燵のように膝が落とせ、楽なつくりだ。足元には電気ヒーターと薄いベージュの絨毯が敷いてある。それぞれランチを注文すると、しばらく窓の外の景色をぼんやりと見た。
紅葉を過ぎ、あちこちに湿った葉をへばりつけた楓の下に小石が積まれ、水無し川のようになっている。夜になると明かりが灯るのか、竹を割って細工した灯篭も二つ三つ、置かれていた。
「遺骨はどうされるんですか」
 笑顔をつくりながらさり気なく聞くその質問に、脩一は、奈美が最も確認したかった核心があると思った。
「供養してもらうお寺が決まるまでは、当分は、ぼくのところに置くことになると思いますが。父は実家が嫌いでしたし」
「そうですか……」
 予想に反し、あっさり引き下がった相手に、むしろこだわったのは脩一の方だった。
「そちらはどうされているんですか」
「えっ」
 小さな驚きの声だ。
「あなたのお父さんに分骨してもらったものを、一応、私が供養してます」
「じゃあ、あの小屋のどこかにもう一つ、あるかもしれないんですね」
「ええ。それもだけど、あんな二人だから、竹藪の中にでもお墓をつくってることだって考えられるし」
 奈美は、つい自分が口を滑らしたことに、バツがわるそうな顔をした。
「あっ、ごめんなさい。私、そういうつもりじゃ」
「いいですよ。ぼくも似たり寄ったりの気持ちだから」
 二人、出会ってから初めて、気が合うように微笑んだ。
 お互いに打ち解けてきたこともあってか、これまで避けてきた質問や話題になった。
「実は、ぼくは、あなたのお母さんには、会ったことがないんです」
「写真だったらありますけど、見ます?」
 そういって、ハンドバックから手札額を取り出した。はがき大の写真が嵌まっている。背景は真白で胸元からの写真だ。
「死ぬ一年前で、五十三のときのです」
髪は、セミロングで、毛先が片口でやや跳ねている。全体にふんわりし、少し染めているのかブラウンがかっている。その下で、面窶れもない肌艶のいい顔が、微笑している。いかにも穏やかそうで、十は若い印象があった。左手で今植えたばかりなのかピンクの花の咲いた小鉢を顔のあたりに持ち上げていた。
「少し修正してますけど」
「どこをですか」
「背景です。だって……」
 そこで奈美はクスッと笑い、
「山小屋の前で、オートで撮ったみたいなんですけど、あなたのお父さんが猿のマネをして、横から顔をだしてるんですもの」
 「猿? 父が……」
脩一は、意外な話に戸惑いを隠せなかった。
「ええ。あの辺りには猿が出るらしいんです。ずいぶん前に畜産関係の人が客寄せで十匹くらい飼ってたのを、事業が難しくなって逃がしたらしいんです」
「それが増えたんですか」
「今ではかなりの範囲を季節季節に群れで移動しているみたいだって、母が話してくれてました」
 それにしても宗治のおどけた顔が白く修正された向こうにあることがわかると、それまでただの人物写真と思っていたものが違ったものに見えてきた。脩一は写真から視線を逸らし、再び庭園に目を向けた。猿が出るには程遠い人工的なつくりの庭が佇んでいる。それは、彼にとりむしろ親しみのある風景だ。
 食事はひと品ごと小さな器に上品に盛られていた。取りやすくするために先が細く研がれた箸を使うと意識が集中でき、昨日からのことがしばらく忘れられる思いがした。
       

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