「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『伝言』・その六

 六
 杉ばかりと思っている土手も、一歩上がると下草がはびこり、年を越し一段と勢いが衰えたとは言え、刺のある蔦や茎の枝がズボンや靴下の布地に絡み、まとわりついてきた。それでも枯れたものは踏みしだくと心地いい音をたて折れ曲がり、通り道をつくっていく。
「やっぱり、こんなところにはないんじゃない」
「探そうって言いだしたのは、そっちだよ」
 新年を迎えた最初の日曜日、脩一と奈美は山小屋の正面から土手を登り、周囲の林をかれこれ二時間近く歩いていた。たまに股まで入りそうな穴に足がはまって前のめりになりそうなり、両手でバランスをとりどうにか持ち堪えた。
「気をつけてね。山芋を掘った跡があるから」
「そんなことまでやってたのかな」
「とりにきたのは、地元の人よ」
「だろうね」
「それにしても、大雨のときなんか、よく崩れなかったね」
「傾斜がそんなに上までつづいていないからだとは思うんだけど」
 確かに、見上げると杉と杉との隙間には蒼空が透かして見え、勾配はそこで途絶えている。土手の頂の木をすべて切ってしまえば、向こうは見晴らしのいいなだらかな平地のようだ。それは二人が実際に、今日歩いてみてわかったことでもある。
 それでも脩一は、意外に奈美が山小屋について詳しいことに気づかされた。
 山中での陽の翳りは想像以上に早い。太陽も杉木立の向こうへ姿を隠し始め、初春ならではの肌寒い風が一陣どよめくと、冷たい空気が一気に辺りを包みこみ始めた。天気のいい日をねらって、午後から始めた墓探しの行為もそろそろ見切りをつけねばならないときがきていた。
風を通すため開けていた縁側のガラス戸から、それぞれ疲れたように靴を脱いで中へ入った。何の収穫もなくぐったりと肩を落とした二人が、ほとんど同時に顔を向けたのピアノだった。
「まさか……」
 脩一は、つぶやくや否や這うようにアップライトの下へすべり込んだ。
 ペダルにかぶせられた部分が手前に開くようになっている。
 バネ式になった金具を押さえ、丸い取っ手を引くと一センチほどの厚さの板が重々しく動き、弦や響板の一部が外にさらされた。すると、右下隅のちょうど空いたスペースに無地の青磁の壺とその横に三十センチ四方の段ボールの箱があらわれた。やや薄めの色のその壺は、部屋の光を真正面に受け、艶やかに照らしだされているように見える。片手でつかめるほどの大きさではあったが、脩一は慎重に両手で捧げ持ち、奈美に渡した。
 奈美は、頭部がさらに小さな円形で縁取られた蓋を静かに開けた。そこには、確かに乾燥した白い骨の一部がつまっていた。
奈美の瞳が瞬く間に湖面のように濡れ、そこから一筋、頬を伝い落ちた。予想外の展開だった。脩一は、彼女から感情の波が引くのを待って、次に段ボールの箱を差しだした。
訝しげに見つめ、心当たりがまったくないというように小首を傾げる彼女の瞳はまだ滴で光っている。もどかしげに、脩一が箱のガムテープを剥がし始めた。
 テープといっしょに表面が破けた蓋をめくると、ビニール袋につつまれた布切れのようなものが出てきた。恐る恐る結び目をほどき中を見た。人体から発せられてくる匂いとも、微かな熱ともつかぬものが鼻先へ立ち上ってくるようだ。ひと目見て、血痕とわかる赤い染みが襟元についた白いブラウスがあった。人体ではない、釘のような鋭利なもので引っ掻き、切り裂かれた女性ものの下着、傷口をぬぐったのか、からからに乾いたタオルもあった。宗治と明子との間に何があったのか、修一は想像しただけでも怖くなり、それ以上静視できなかった。
「まさか、君のお母さんを殺したんじゃ」
 無意識にか、小さくつぶやくと、奈美は噴き出し、鼻にかかった声で言った。
「そんなはずがないじゃない。母はちゃんと十年前に病院のベッドで死んだのよ。膵臓癌だったわ。発見が遅れてしまって……。あなたのお父さんと私で看取ったんだから」
 彼もそのことは知っていた。
 そもそも明子という女性の名を脩一が知ったのは、中学に上がるとき、一通の手紙が彼宛てにとどいたからだ。封筒には差出人の名前はなく、中を開くと、これまで自分のために、あなたへさみしい思いをかけたことを詫びる文面と、今も心から申し訳なく思っていること、それに父を弁護する言葉が書いてあった。そして最後に改行し、吉野明子としたためてあったのだ。脩一は琴絵には見せず、今でもいつも持ち歩くバックの中に仕舞ってある。それから四年後の高校一年のとき、今度は明子の死が、父から送られてきた手紙で知らされた。それはワープロを使ってあり、最後に宗治の名があった。お母さんにはちゃんと別の手紙で知らせているから心配ないこと。息子のお前には事実を伝えておきたいからこの手紙を書いたと記されてあった。
「あなたのお母さんは、ずっとぼくのことを気遣ってくれてたんだ。そのことはわかっていた」
 脩一は、奈美と会ってからいつか明かそうと思っていたことを、このとき初めて告白した。
「あの人だったら、そんなこともしたかもしれないわね……」
 奈美は珍しく感慨深げに溜息を一つつき、視線を落とした。
「そもそも僕たちは、めぐり合わない方がよかったんじゃないかな」
 このとき、沈んだ空気に飲まれるように脩一の気落ちした一言が聞こえると、奈美は、すぐに顔を近づけ、ゆっくりとした口調で語った。
「でもね、この服のことは、あんまり憶測で想像しない方がいいわよ。よくあることなんだから。男と女がいっしょに暮していたら……。それぞれ家族を離れて生活を始めたのよ。そりゃあ、気がめいることや、意見の食い違いもあったはずだわ。とにかく母は、あなたのお父さんとこの山小屋で暮らせて幸せだったって、電話の声でも充分伝わってきたから。それは私が保障するわ。だから気にしないでね」
 説き伏せられるようにそう言われ、脩一は骨壺と箱をまた元の状態に戻し、ピアノの中へ納めた。
 その日、奈美に宥められてはみたものの、何んともいたたまれぬ気持ちで店へ戻ると、爪に泥垢の染みが入った指でパソコンを動かした。
沙希からのメールが届いていた。
 突然ですが、わたしたち婚約しました。今、とっても幸せです。
 文面には写真も添付されていて、開くと、どこかの島の崖際で初日の出でも拝んだのか、灯台にもたれたリュックを背負った彼女と、その隣には赤い鬚をたくわえ同じように重装な出で立ちをした外国人が笑顔で写っていた。
 卵はどうなったんだ。パン屋のことは。そして残された僕のことは……。
 みんなけっきょく、自分が考えているほどにこだわっては生きていない。
 脩一は宗治の死や、さっき見た服のことも必要以上に考え込んでいるのは自分だけではとふと思い、これまで保ってきた緊張が俄かに弛緩し、崩れていくようだった。なるほど奈美の言うとおり、すべてはよくあることなのかもしれない。世間では星の数ほどよくあることなのかも。
 琴絵の顔が浮かんだ。遠慮することも、隠すことも今さら一つもない気がした。
 さっそく電話をかけると、受話器から聞きなれた声が返ってき、これからすぐに行く旨を伝えた。気がつくと、彼女の住むアパートの駐車場がすぐ目の前に迫っていた。
 脩一は、この際、宗治が死んでから一月の間にあったことを、彼女にぶつけてみようと思っていた。
「そう。あの人には娘さんがいたの……」
 琴絵は奈美の存在は知らず、わりに冷静だった。
「実は、お母さんに見せずにいた二通の手紙を持ってるんだ」
 琴絵の顔が平静を装いながらも、どこか強張っていくのを脩一は見逃さなかった。
 脩一は、バックから少々色褪せた封筒を取り出した。琴絵は、静かにそれを開くと途中から、納得がいかないのか訝しげな表情で唇を噛み、首を小さく振った。
「おかしいわね」
 脩一が、思いがけないその言葉に驚く間もなく、琴絵は椅子から立ち上がると整理箪笥の引出しをごそごそと探し始めた。
「あったあった、これ、これ」
 定型の白い封筒で差出しは父になっている。茶色っぽく褪せた小さな新聞記事の切り抜きと便箋が一枚入っていて、こう書かれてあった。
 明子さんが交通事故で亡くなりました。あなたには一応、お知らせし ときます。
消印は、十九年前、つまり宗治が家族のもとを離れていった翌年だ。
「相手とは仕事の出張先で知り合ったのよ。でもね、回り回って、因果応報ってあるのかしらね。あの人が出ていった次の年に、居眠りした車に轢かれて死ぬなんて……」
言葉のきつさとは裏腹に琴絵の声に変化はなく、淡々とした口ぶりだ。
「私もまだ若かったし。すぐに一週間分の新聞をかき集めて、探し出した記事がそれよ」
これまで、脩一の前では未練がましい態度を見せたことのない琴絵ではあったが、当時のことを話せばやはり、表情のどこかに風化しきれぬ何かを今だ引きずっているのが見て取れる。
記事に目を通すと、横一段で事故の様子と被害者の姓名と年齢が書かれ、四十五歳になっていた。
「だったら、この手紙は」
「ワープロよね……」
 琴絵は訝しむように目を細め、紙面を片手で掴みしげしげと見た。
「あの人は、手紙くらいは手書きをする人だったと思うけど。第一、あなたに書くのにわざわざこんな書き方をするってへんじゃない」
 確かに残された遺書も手書きだったし、あの膨大な楽譜に仮名をふっていた父だ。改めて眺めると、そこに並んだ文字がやけによそよそしく思えてくる。
「それにしても、あの人も、よく一人で持ちこたえたものだわね」
 琴絵が最後に吐き捨てるように言った科白の向こうで脩一に浮かぶのは、ただ一人の女性しかなかった。

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