「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『伝言』・その七

    七
 山小屋へいっしょに行ってほしい。
脩一は、メモ用紙に書いて、奈美へ渡した。
「これから……、もちろん、いいけど……どうして」
 それには脩一は答えず、ただ黙って奈美の顔を凝視した。そこから小屋までスムーズについたとしても二時間半はかかる。時計を見ると三時半を過ぎており、到着時はどっぷりと日が沈んでいることは間違いない。脩一はそのことは最初から計画していたのか車では来ておらず、奈美の車で出掛けた。
 平日ということもあって、道路は比較的、空いていた。街中から郊外をぬけ、徐々に田園が広がっていく。やがて傾斜のきつい道が増えてくるとアクセルをいっぱいに踏みながら、どこか疲れのようなものが奈美にはおとずれていた。話しかけようにも言葉を発さない脩一が助手席にいるからなおさらのことだったろう。ただ、奈美自身、そろそろある事実を打ち明けるべきときがきつつあると感じていた。
 二人が出会った警察署を過ぎ、いよいよそれを合図に、国道を左折し、ビーグルのいる数軒の集落を突っ切ってから山道へと入った。陽はすでに落ち、まるで真っ暗な藪の隧道でも走っているようだ。車の側面に迫り来る根株や土手の赤土がヘッドライトに照らされ晧々と映しだされていた。
 ハンドルを手に、奈美は、どう切り出せばいいのか迷っていた。心に深く鉤が引っかかったように重い。なぜ、あんなまねをしてしまったのか。彼女はかつて二度、今隣にいる脩一に手紙を書いた。一つは既に死んでいた母になりかわり、もう一つは彼の父宗治として。
 山間の地域に入って曇り空から溶け出しては舞い始めていた雪は、蝶が羽化でもしたように乱れ飛ぶ粉雪となり、小屋につくころには土くれが見えないほど周囲を真白に染めていた。風が強く、両頬を嬲っていく。昼でも日の差さない木陰に凍結した雪の結晶がライトの光に反射され、ダイヤモンドのように輝いている。出口をなくした吹き降ろしの風はゴーゴーと渦巻き、蝶の群れを宙に飛ばした。いつもなら寝静まった木立との一体感は消え去り、小屋全体が左右へ揺れ動いているようだ。
わずか一年。奈美は思った。このすべてを賭けた場所に母は一年しかいれなかった。
 母の突然の事故死を大学の下宿先で知ったとき、即座に思ったのは、娘を捨てた罰が当たったのだということだった。しかも一回りも若い男と好き勝手なことをやり、なけなしの貯金まではたき小屋をつくって住みだした。鬱々とした気持ちのまま、それでもどこかで母の死を受け入れられなかった奈美は、その対処として、反対に残った宗治が彼女の死後どんな行動をとるか、つぶさに見ていこうと決心した。もしかしてもといた鞘にあっさり収まってしまうのではないか。その哀れな結末を見とどけることで心にケリをつけようと思ったのだ。だが、宗治はそんな奈美の予想に反し、昔の家族への愛着一つ見せず、地元の木材を使って家具をつくる工場でアルバイトをしながらこの山小屋で暮らしつづけた。外部の人とは必要以上に接触せず、むしろそれは偏狭なほどだった。ただ彼が唯一、息子の脩一のことだけは気にかけていることは、ときおり漏らす言葉の端々から充分汲み取れたし、脩一が幼い頃、夏休みになると熱心に山小屋へ誘っていたことからも理解できた。だから、夏、息子が来ると聞けば、つい食材の差し入れをしてしまう自分がいた。同じ年頃で父がいなくなった自分と重ったのだ。脩一には罪はない。中学になり、パタリと連絡も減ったようで、ときおり塞ぎこむ彼を見たとき、距離を置き見ていたにもかかわらず、どこかほっとけなくなった。何かしてやらなければ。そう考えたとき思い余って明子になりかわり書いたのが最初だ。やがて、三年後、彼女は宗治の異変に気づきだした。まず仕事に行かなくなった。山小屋からも出なくなり、ぼんやりと縁側の椅子に身を沈めては一日を過ごす。食も減ったようで、頬から肉が落ち、体全体が細っていっているのが目に見えてわかった。もういいのではないか。彼女の中にそんな思いがふと過ぎったのはそのときだ。もう、許すべきときが来たのではないのか。気がつくと母の死から十年がたっていた。そしてその死を知らせる手紙を宗治のつもりで息子に送った。
 そろそろ、やりたいことをやっていいんじゃないかしら。死んだ人にいつまでも縛られることを母も望んでいないと思うんだけど。そんなことを彼女が、何かの拍子で言った時の宗治の顔を彼女は一生忘れないだろう。悲しみも怒りも通り越し、心の底から相手を軽蔑する眼差しだった。そう、さっきあの店で脩一がメモを渡したときの顔とそっくりだ。
 何かを誤解していた。奈美はそのとき初めて悟った。明子と宗治との関係を普通の計りで見ようとしていたのは、他でもない自分自身であったことを。
 彼女は、ある曲をピアノで弾いてみせた。彼女にできることは、もうそれしかなかったからだ。曲は明子が好きでよく弾いてくれてたものだ。奈美はピアノの手ほどきをほとんど彼女から習った。母は小中高と、かなり熱心にピアノをやっていて、事情が許せばピアノ教師になりたかったと言っていた。母が愛したピアノ。当然、それは自分が受け継ぐものと思っていた。小屋へ持っていくと聞かされたとき、裏切りが憎悪へと変わった日が今では遠い昔のようだ。
 すぐに宗治に変化があらわれた。旋律がすすむにつれ、無表情に近かった目に微かな光が呼び戻されてきているようだった。瞼が真っ赤に染まると、頬を涙が一滴、零れ落ちていた。それから、宗治はとりつかれたように次々と楽曲を聞いては楽譜を要求し、彼女がコピーしてきたものを切り貼りし、仮名をふりはじめた。練習もすさまじく、CDを耳で何度も聞いて、その音が消えぬうちに楽譜で探し出し、指の動きを反復させ、体に覚えこませていった。奈美が教えたのはほんのさわりだけで、後はすべて独学だ。一体、彼のどこにこんな力が残っていたのか彼女自身にも信じられなかった。もちろん聞いてどれもぎこちないものではあったが、一曲終えるごとに彼なりに納得しているようだったし、はなから弾けぬと思ったものは仮名をふることだけで満足している様子だった。家具づくりのバイトも意外に器用な面があり信頼されていたのか、たまに声がかかると、また行くようになった。そうやってさらに十年が過ぎた。最近になり奈美が会社を起こし、バタバタし、一月ほど山小屋へいかなかったとき、彼の死は知らされたのだ。ピアノの細工はその間にやったらしい。もちろん骨壷も服のことも知らなかった。事故のときのものを宗治はとっていたのだ。
 奈美が先に鍵を開けると、板と板の隙間から侵入した旋風が不気味な笛の音を鳴らしていた。室内にもかかわらず、カーテンの裾は無軌道に揺れ、外気を送るつづけるため冷え切っている。歩くたびに床は軋み、日一日と柱の一本一本から耐久の寿命が過ぎていっているのがわかる。唯一の暖房器具である石油ストーブも灯油が切れたままだ。じっとしていると筋肉が強張っていくだけの寒気の中で、脩一は、これまでのことを回想しつづける彼女の一つ一つの動作を見逃すまいと身構えた。吐き出される白い息だけが、むしろ揺るがぬ彼女の生気を感じさせた。
「あなたの注文どおり、やってきたわよ」
 あちこちから聞こえる擦過音や唸りも気にしないかのように、小さな木製のテーブルにつくと、奈美はサバサバとした口調で言った。もうすべてを打ち明けよう、そんな気になっていた。
脩一は、キッチンの横の棚に並べてあるCDから一枚を取り出すと、ラジカセにセットし音楽をかけた。
可憐なピアノの伴奏から始まる曲だ。脩一は、メモ用紙にペンを走らせた。
 Were All Alone
 奈美の表情が固まった。凍りついたように動かなくなり、白い息が一筋、口元から流れ出た。
宗治に弾いた曲がそれだった。
脩一は立ち上がると、再びキッチンの方へ行き、流しの下の隙間を指差した。
 ぼくは、ここにかくれていた。
 それは既に文字とはいえない、希求に近い言葉だった。走り書きされた紙を受け取り、奈美の唇もふるえた。
 小一の夏。
 昨日、脩一は一人でこの山小屋に来ていた。当時のことがわかるヒントはないかと探しにきたのだ。吉野明子が十九年前に死んでいたとしたら、それを裏付ける何かがあるのではないか。そのとき彼の記憶に甦ったものは、この場所だった。
 初めて山小屋にきた小一のとき、普段住んでいる街中とのあまりの違いに緊張してか、彼は到着と同時にひどい腹痛と下痢になった。予定では水着に着替え、一度麓に下り、別の山の中腹にある谷あいへ川遊びにいくつもりだった。しかし、下痢が治まらず、布団に横になってはトイレとの行ったり来たりを繰り返した。徐々に回復はしてきたものの、初日でもあり、先のことを心配した宗治が薬を買ってくると言い出した。脩一は、すぐに帰るという宗治の言葉を信じ、ただ横になって眠った。数十分たっただろうか、車の音がし、痛みも引いた脩一はちょっとした悪戯心がわき、隠れて驚かしてやろうと思い立ち、急いで見つけたのがこの隙間だったのだ。ちょうど水引のステンの下で空洞になっている。しかもお誂え向きに、中が見えないように木綿の布が垂らしてあった。醤油や味醂のビンも数本しかなく、当時クラスでも小柄だった脩一はなんなく身を隠すことができた。
 布を落とすのとほんど同時に玄関の鍵が開き、人が入ってきた。
 脩一は息を凝らし、じっと飛び出すタイミングを見計らい、そばに来るのを待った。だが足音が耳元に近づくにつれ、それが宗治でないことがすぐにわかった。もの静かで、遠慮深く、できるだけ事の用事を早く片付けようとしているそんな足取りだった。何かをとりに来たのだろうか。脩一は腹痛のことも忘れ、ただじっとしていた。汗がしゃがんだ腿の付け根や脇の下にじっとりと熱をためこみ滲んでいるのがわかった。
やがて、足音は目の前にやってきた。黄色い花柄のついたソックスと、スカートの裾が見えた。脩一には背中向きで冷蔵庫を開けると、持ってきていたものを入れ始めた。冷凍から冷蔵へ、慣れた手つきで素早く補充していっているのがわかった。ビニールの音がかさかさした。
 そのとき、何かが倒れる音がした。
 足の持ち主は、背伸びをし片手で直し始めた。右足が上がり、左足で体を支え、必死に、掛け直そうとしている。やがてそれも終えると、足首は脩一の視界から消え、一度玄関に行きかけ、また引き返してきた。木の擦れ合うような音がし、脩一はそれがピアノの蓋を開けるものであることがすぐにわかった。そして聞こえてきた曲がこれだった。
 Were All Alone
 あれは、君だろう。
 奈美は、脩一の顔をじっと見た。すぐに頷き、肯定したかったが相手の必死に訴えるような文字や態度が反対に何かを阻みだした。二人の間の淀んだ空気を、言葉で説明することで払いのけたかったが、唇が動こうとしない。
脩一は、とどめを差すように、強い筆圧で押し切るように書きなぐった。
 右利きだった。
 奈美の中の何かが微妙に揺れた。
縺れた糸をほどき、事実を伝えるということ。その困難さが先に彼女を襲いだしたのだ。正確に、できれば感情の機微も含め、当時の自分の気持ちをありのままに伝えたい。でも、表面をなぞるだけでは何もかも誤解されてしまうかもしれない。私が母たち二人をまちがって見てきたように。けっきょくは人は生きてきた証など何一つ立てれないのだ。でも脩一の心にだけは言葉をとどかせたい。
 奈美は今、自分のやった行為の本当の重さに気づかされ、今度は、自分自身が審判を下される番であることを覚悟した。
 時間が必要だ。それほどに私が彼にしてきたことは大きかった。
心が決まってからの彼女は、むしろ静けさを領した態度に変わっていった。脩一は、食器棚の上に掛けられた山の風景写真を飾った額縁をちらりと見てから、彼女へ視線を移した。
 お母さんは、左利きだ。
 奈美は、ただ黙って座っている。
 服も手紙も、みんな、君のしわざだったんだ。 
 反応のない相手に刺激されたのか、脩一はその一枚を破らず、束ごとテーブルに投げ捨てた。
「……どう…して…」
 それは脩一が、その日、初めて発した声だった。嗚咽とも叫びともつかぬ、きれぎれに、咽喉の奥底からしぼり出されていた。
「僕や……父……への……復…讐…」
 胸が焼けるようで、それ以上のことはやはり出そうにない。それでも意識を集中し渾身の力で、熱湯のように滾っては昨夜から苦しめつづけた最後の疑問を言葉にした。
「君が……、父の……ほんとうの……恋…人…だった…のか」
堪えきれず、ついに奈美は、激しくそこで首を何度も大きく横に振った。
「ちがう、ちがう」
 頭を揺すり、小屋中に響くように叫んだ。これまでの冷静な態度と打って変わり、脩一もやや身をのけぞらせ怯んだ。それでも彼女が興奮を沈めようとしていることは、小刻みに間隔を空け伸びていく呼吸の音からわかった。
「あなたも私と同じよ。私が母のことをわかっていなかったように、あなたもお父さんのことはなんにもわかっちゃいない」
耳元を掠める風の音にもけっしてひるまぬ強い口調だ。心に掛けた留め金がカタリと外れるような音が、今、奈美にはした。
白熱球の光がとどく二人の場所以外、部屋は闇に溶けている。声は、深い洞窟で発せられるように低くくぐもった。
 奈美は両手を首の後ろへもっていくと、タートルネックのセーターの中からペンダントを取り出した。銀の小さな本の形をしたロケット式のものだ。まるで表紙をめくるように蓋をあけると写真が入っていた。椅子に座ることもなく突っ立ったままの脩一に、それは差し出された。明子の遺影で、修正される前の写真だ。消された白い背景の向こうに何かが隠されているのではと薄々感じていた脩一は、自分の勘の的中に動揺を覚えた。宗治がいた。下顎を突き出し、黒目を上に、おどけた顔で猿の真似をしていた。右手を頭に、左手はおねだりするように明子の方へ向けている。その指の先が花の生けてある小鉢だった。
 奈美の言ったとおりだった。
 これまで脩一の見たことのない宗治の姿だった。
「十九年前の私は、これを遺影には使いたくなかった。母を私から奪い取った男が、しかもそんなにふざけて……他にも写真はないかって、いろいろ探したわ。あるにはあったんだけど、こんなに生き生きと、嬉しそうな母の顔は、やっぱりその一枚しかなかったの。だから私はせめて白く塗りつぶすことで、母からこの男の過去を消し去りたかった」
そしてぽつりと言った。
「失ってからなんだわ。人がわかろうと思うのは……。でも、そのときはいつも遅いのよ」
 そのときだ。強風が吹き、小屋が大きく横揺れした。一瞬だった。柱が傾いたかと思うと、みしみしと不吉な音を立てボードが壁板からずれ、漆喰がボロボロと落ちだした。身の危険を感じた脩一は、咄嗟に、その場に上体を伏せた。ガラスの割れる音がした。部屋に雪混じりの風がなだれ込み、ガタガタと食器類が落ち、床に破片を飛び散らせた。壁に掛っていた額縁もまたたくまに落下した。基礎もなく地面に、ただ打ちつけられただけの床下の根太と柱が数本折れたらしい。支えをなくした梁が、いつまでもつかわからない。動揺もあってか、脩一は奈美に声をかける間もなく、倒れてきた食器棚から身をよけようとした際、テーブルの脚で脇腹を強打した。次の瞬間、そばにいたはずの彼女の体がまるで何かの助けに駆け出すかのようにひらりと動くのが見え、黒い影絵となって彼の視界の端をかすめた。激痛に顔を顰めながら、脩一は奈美を追おうとするが、ついていけない。水平に目を凝らすと、小屋全体が左に傾いているのがわかった。どこかで呻き声がした。
 うつ伏せのまま、その声の先を見ると、奈美がピアノの下敷きになって倒れていた。鍵盤が仰向けになった彼女の脇腹を咥えこむように押さえつけている。骨壷もダンボール箱も、頑強なフレームを囲った茶褐色の胴体に隠れて見えない。
「な、…なみ……」
 脩一は必死に呼びかけようとするが声にならない。苦しげな彼女の喘ぐ声にもかなわぬほどか細く、それでもただ必死に目を離さず叫びつづけた。
「なみ……しっかり……」
 次第に力がこもり、はっきりとした音の連なりになっていく。それでも、耳にこもる響きが錯覚でないことを祈りながら、ふりしぼるしかなった。
「なみ……しっかりしろ、なみ……」
 倒壊しかかった山小屋の中で、砕けたガラス戸から漏れ出る声は、吹雪始めた雪とともに杉林の彼方へと木霊し、すぐにまた、突風にかき消されていくばかりだった。


(尚この作品は「詩と真実」2008年5月号に掲載されたものです)

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