「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『海神』・その1

             海 神
 敏雄は、操舵を片手で操りながら、節くれ立った指先に力を入れ、握り手で巻き上げるようにスロットルを絞り込み速度が張詰って噴き出してくると、船の舳先にぶつかり二手に割れていく波の音と女たちのざれごとをさっきから交互に重なり合い耳にしている、そんな気がしていた。夢の中にいるようだった。
 「敏雄さん、あんたもいよいよ父ちゃんげなね」
 「ほんなこてね、いつんまに嫁さんもろてきたつ?」
 採れたばかりのアサリは、塩と磯の匂いが籠り、船底に山と積まれた女たちが五枡ごとに詰込んだ青いナイロン製の網の中で声を密めて縮こまっている。鳴くでなく観念するでもなく、ただ潮の引きに抜かれまいと、急いで泥を被ったところが貝掘り女たちのこしゃぐガン爪で陸に揚げられ鎮まってしまい、生臭い風のようなものをその殻の暗い淵から放すだけだ。
 律子を連れて来た時、母の美佐江は彼をなじった。
 どこの馬の骨ともわからぬ雌犬をこの家に置いておくわけにはいかぬ。雌犬は、やがて雄犬を何匹も引連れこの家へやってくる。田畑を荒らし、網を食い千切り家を荒らし、土地も財産も何もかも咽み尽してしまう。お前にもまだ分別があると思っていたが、ここまで落ちていようとは思ってもみなかった。我、年老いたと言えども、菊岡の仲買としての誇りは捨てていないつもりだ。先祖から受け継いだ土地と家、今のふしだらなお前にやるわけにはいかぬ。
 父親の由介はその時、黙って母親の後ろに立っていた。隣町の同業の二男坊で養子だった。それに三年前、荷揚げの仕事の最中腰の骨を悪くしてからは、特に力を落としていた。 しかし、そんなあられな言葉を投付けられながらもうろたえる両親を前にして、敏雄は充分満足していた。律子を使って自分の力を誇示することが目的だったからだ。彼女は既に子を孕んでいた。敏雄からすれば誰の種ともわからぬ子が、女の鼓動に包まれた下腹の中で四月目を生きていた。そしてそのことが、今思えば敏雄のしくじりの第一の始まりだったと言っていい。律子の膨らみは美佐江に素早く見抜かれ、その怒りをある一線で食止めさせてしまうことになったからだ。母親は、腹の子がてっきり我が子の蒔いたものだと判断したのだ。
 夏の熱い盛り、高校を途中で退学し仕事もせずぶらぶらと遊び惚けていた敏雄を庭先まで引摺りだし、竹竿がへし曲がらんばかりにぶち叩き、仲買の仕事に連れ出していた厳しい面影もそこにはなかった。
 自分は、近頃臆病になっている。
 敏雄は、波の音を耳にし目覚めるように操舵を傾けると、今ある現実を胸のどこかで認めている反面、強く恐れる自分を恥じた。
 潮の飛沫が舷に跳んできた。
 有明海の潮の満ちは速い。湧水のような潮流がどこからともなく血のように沸き出てき、眼前に太陽と月と地球との陰影をつくり出す細かな中にも大胆な営みを見て取るようだ。ちょろちょろちょろちょろとした流れは次第に凄まじさを増し、墨色に地表を舐め尽くす勢いで覆ってくる。微かに沈む西日を受けて潮の動きは蛇行するようであり、波の穿った先端は鱗に蔽われた幾つもの痩身を白金の中にぬらぬらと蠢かせ輝かすようだ。うねったかと思うと地を這い、船艇を掌で弄ぶように押し流してくる。敏雄は底板一枚の足下の動きに呼吸を合わせスロットルを徐々に上げ下げしながら回転数を調整し、自分たちを運ぶ器が潮の満ちに乗じたことを確かめた。船は上下に僅かに揺れながら横に行くに従い湾曲し細く伸び切った堤防を目指して進む。敏雄は、その堤防と舳先を糸で結ぶように目線で岸までの距離を測りスクリューで波の深さを聴き分け、馴れた手つきで背の張った船腹が砂を浴びる一歩手前に停止するようエンジンを切った。
 岸に着くとさっそくトラックへの荷揚げの仕事が待っていた。船から堤防の坂を登り切るところまでは耕運機でやり、後は、その荷台からトラックへと次々と運び込む。一緒に船に乗っていたアルバイトで来ている従弟の英治が敏雄を手伝った。
 美佐江が、帳面に女たちから何枡採ったのか聞き取りながらそれらを小まめに記している。どれだけ働いたかは口約束で決められる。誰も疑う者はいないし、嘘を言う者もいない。仮についたからと言ってそれがどうなるというのか。仲買がその帳尻は合わせるしかない。菊岡に来るものは腕の良い玄人ばかりで、少ない者でも一斗から二斗、多い者で四斗は採ってくる。そんな貝掘り女を手放しては、仲買は死ぬしかないのだ。
 「めっきり貝も少のうなって、手ばっかし動かしたところでちっとも出てこんばい」  「あんたたちばっかりが頼りなんやけん、がんばってくれんなら」
 美佐江が、駄菓子屋の千代に声を掛けている。千代は、貝掘りには店をわざわざ閉めてやってきていた。「店の方も、スーパーできてから客来んごつなったし、貝掘りでがまださにゃ、私ら食っていけんもんね」
 「ほんなこつ、ほんなこつ」どこからともなく相槌がでるが、その主はダバを脱ぐとさっそく帰り支度を始めている。シュミーズも下着も露にして着替えにかかる。
 「尻んとこまで濡れて、こっじゃ良か男も寄りつかんごつなる」
 「あんたその年で、よう言うよ。今日船ん上から小便しよったつはどこの誰ね」
 さすがに仕事を終えた安堵感か、潮になぶられた髪もそのままに、女たちはそんな冗談ともつかぬたわ事をポンポン飛ばす。どこからともなく哄笑が起こった。
 トラックへの荷揚げが済むと、敏雄は運転席に乗り込み、隣には英治が座った。このまま荒尾から博多の市場まで直行するのだ。仲買で買った二倍から三倍の値で売り渡すことになる。
 「エイジ、今日おまえ運転してみるか」敏雄が、煙草を取り出しながら言う。
 「取ってすぐじゃけんね」含羞んだような英治の返事がかえってくる。
 「かまわんかまわん。さっさやって、馴れとった方がよか」
 英治の不慣れな運転でトラックが出発すると、美佐江は、孝造の事務所に向かった。海岸沿いに少し歩き、もと海水浴場があった脱衣場あたりから土手を下って道路に通じるその間に孝造は、プレハブの瀟洒な造りの一階建ての事務所を設けていた。
 今日の採れ高と、女たちの一人一人の数を事務所の手伝いをしている二女の尚子が計算機に打込んでいく。
 「なんも、そぎゃんきちっとせんだっちゃ、ちゃんとこん帳面に書いてあるとおりなんやけどね」美佐江がそう言っても、「ばか言え、数が問題じゃなか。市場での売り値とこっちで採った量とばいつも目やっとかんと痛い思いすっとたい。なんも売るっとこは博多ばかっじゃなかつやけん。分けて売ったっちゃよかつ。柳川辺りででん、今時はよう売るる」孝造は、尚子の隣で画面を食い入るような目付きで睨んでいる。
 既に日は、有明海を挾んでその丘陵の影を見せる雲仙岳と多良岳の中間に陥没する諫早の向こうへ隠れ暮れてしまっていた。
 全身汗だらけの筈なのだが、夏でも仕事着として長袖の上着を身につけている美佐江にとってはその事も気にならず、手と足の汚れを外の洗い場で落とすと三和土のつづく家の中へと入って行った。親の代から風呂と台所以外は建増しすることも改造することもなく、襖を取り外し夏は吹き抜けにしてある広い家には美佐江の他今は誰もいない。由介は漁協の会合で稚貝の養殖の件で出回っていたし、敏雄たちは、三か月前から既にこの家を離れ女と一緒に隣街にアパートを借りて住んでいた。家の周囲は江戸時代に干拓された地帯にあるためどこの庭の組成も砂浜と似たり寄ったりのようなもので海抜が零かそれ以下にあり、貝殻が多く混ざっていた。美佐江が子供のときなどは掘ればすぐに塩水が滲み出てき、磯蟹がうろうろ土間の中にまで入って来ては飼い猫の恰好の遊び相手になっていた。
 家の座敷の奥には様々な記憶が生々しく残っている。美佐江にはそれらが折りに付け昨日のことのように思い出されてくることがある。
 敏雄が、高校で何が気に食わなかったのか暴れに暴れ他の学生の処分をするのなら自分から止めてやると校長室に申出退学したまではよかったが、職を探すでもなくかといって仲買の手伝いもせずぶらぶらしていたときのことだ。
 二日ほど家を空け友人の家を飲み歩き帰ってきたことがあった。日の沈みかけた頂度今と同じくらいの時刻だった。気の強かった筈の美佐江は居間の奥で一人蹲り泣いていた。「どうしたのか」敏雄が訊くと美佐江は眉間を吊り上げ「どうしたもこうしたもない。なぜ、お前は高校を止めたのだ」と反対に突っ返した。相手は「またか」と思い、後は口を閉ざし黙っていた。すると美佐江は躰を震わせながら思い余ったように仔細を話し始めたのだ。敏雄の相変わらずの生活に不安を持っていた美佐江は、じっとしてもいられず妹の夫に当る伯父の家に相談に行ったのだ。伯父は、隣の県の私立の大学を卒業し市の役場に勤め、今では庶務課の部長の地位に着いていた。背がずんぐりとしていて、年の割に髪の薄い男だったが、美佐江が最近新築したというその伯父の家へ行くと、玄関口で有無を言わさず追い返されてしまったと言う。
 「今どき、高校を途中で止めた者を雇ってくれるところなどどこにもない。まして、こんな小さな村であろう筈がないではないか。仕事を見つけろなど土台無理な話だ」そして美佐江が黙っていると伯父は終いには、「お前がしっかりしていないから、こんなことになるのだ」とまで言われたという。敏雄は、かつての荒々しさも消え、黙ってそれらを聞いていた。

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