敏雄と律子が二人で生活し始めたとき、律子の腹の子は六か月目に入っていた。小太りの管理人が、訝しそうにその辺りに視線を落としうろんげな目付きを送っていたのを思い出す。
律子はよく、自分から話を余りしたくないとき敏雄が何か仕掛けてくるのを待つ側に立つ自分を苛立たしさ半分で冷視するときがあった。躰の節々が持っていき場のないほど重苦しく感じられ、少女の時分のそこはかなさが寂しさと一緒に記憶に浮かんではまた消えた。
一人、また一人と友達が減っていく炭住地で、家の前に立ち影踏みしているその足場のなさと不思議とそれは旨く交錯する。どこか激しいいたぶりを覚えながらも子供の頃の律子はそんなとき自分で自分の躰を精一杯受け止めていくしかなかった。
敏雄は敏雄で、菊岡の今の家は、彼自身の持っている幼い記憶と混ざり合わず、どこか着間違えた他人の服のように肌からするりと遊離してしまうものだった。かりに最初の記憶が美佐江の背中におぶさり乳臭い中で市電に乗せられどこかへ出掛けたものだとしても、それは美佐江の躰を通し、自ずとその家と結びついてはいる。ひまし油のような匂いとともに由介に初めて海に連れ出され、波の上に浮輪のようなものを持たされ浮かんでいたのもそうだ。もしかするとあれは家の釜風呂の中で腕に掴まり抱きかかえられていただけなのかも知れない。しかし、それらの幾つかの記憶の断片が、今どうしても怪しくなり自分の躰の奥底で拒絶でもするように溶け込まなくなってきていたのだ。美佐江が、由介が、その仲買の躰を通して知らせていた筈の菊岡の家が今敏雄の内部で音もなく変化し崩れかかっているような気がしているのだった。少し離れているだけで家というものは、こうも寄せ付けぬものに成り果ててしまうものなのか。敏雄はそんな思いに駆られていた。
それから三か月がたち、律子は、まもなく臨月に入ろうとしていた。夏を過ぎたとはいえ陽射しはまだ強く、敏雄は、冷えた麦茶を喉を鳴らし飲みながら一息つくと、窓側に立った。風が入ってきたが、そう強くはなかった。
「あんまりよか風じゃなかな。台風が来るらしかぞ」
律子は黙っていた。
その日律子は、敏雄と菊岡の家に行ってきたのだった。
「上がらんね」二人が土間に立つと美佐江が正面の居間から暖簾を邪魔そうに手で払い除け、顔を出した。奥から聞き馴れた絵美や尚子たちの声が聞こえてきた。美佐江は、敏雄の肩口にいる律子の顔をちらりと見ただけで、すぐにまた引き込んだ。絵美たちの話し声が止むと英治が出てきた。
「トシ兄ちゃん、今姉ちゃんたちとそっちん噂ばしよったとこだったばい」話が旨く出来過ぎているところを見ると、どうやらそれは絵美の差し金らしかった。敏雄は、律子を後ろに従え、框に足を掛けた。
由介と孝造、それに健一は気を利かしたのかそこにはいなかった。
しばらくそこにいる者でたわいない世間話をした後、「そっで、律子さんのことばってん」美佐江が、要件は早く片付けておこうという心積もりか、少しせかせるように口を切った。
「そろそろやろ」美佐江は、律子の下腹に視線をやった。呼吸をするたびに開ききりそれでも動かず自分の位置だけはじっとして知っている、そんな見る者に無表情な膨らみがそこにはあった。「こっち来らせたらどげんね」そのとき律子は、当然かもしれないが、敏雄と二人アパートにいるときとは別人のようにおとなしかった。それでも、旨く尚子や英治に話を合わせているふうでもあり、ただ、おそらく尚子と同じ年格好になる筈なのだが、どこか場慣れした感が彼女にはどうしてもして、それが出来てて知らぬまに自分を幼く見せているようでもあった。その事が絵美の性格には癇に触るものらしく、自然と三人の中に割って入りながらも、いつの間にか寺田の者らの肩を持つことになった。
「オバちゃん、でもやっぱり二人だけの方がよかつじゃなかと?」絵美が言った。それには形だけの挨拶程度の思い入れの他、一応の解決に臨む態度が見て取れるには取れたが、やはり一等親しいなじみの者の弁護でしかないことがどことなくその語調から伝わってきた。敏雄は大きく胡座をかき、太腿にあった手をもどかしげに動かしながらもぞもぞ脇を掻き、決まり切った会話の繰り返しに煙草を吸った。
そんな敏雄に絵美がすかさず訊いてきた。
「あんた、どう思っととね」
敏雄は、ゆっくりと灰皿に煙草の灰を落としながら、
「俺は、どっちでんいいと思っとる」事もなげに言った。
「ほんなこて、こん子は呆るるね」美佐江は、恨めしげに敏雄を見た。
首の折れたような扇風機がしなだれ、回転しながら生温い風を送っていた。
英治と尚子は、雲行きが怪しくなってきたのを機に寺田の家に一度帰ることにした。 「母ちゃんによろしゅうね」美佐江が引き際に声を掛けると、「お母ちゃんほんとは来たかったつばってん、あんまりどやどや押し掛けても仕様がなかけん、よう来らっさんやったつよ」尚子が、最後に捨て台詞のように、自分たちがその代わりに無理に足を運んできたのだと聞こえげに言った。英治はその後ろでニタニタ笑っていた。
「姉ちゃん、嘘ばっかしつきよる。トシ兄ちゃんの嫁さんば見てやろう言うて、喜んで来たくせして」
「なんば言うとね、聞こゆっどが!」
二人の話し声は、庭先からも敏雄たちの耳に、充分とどいた。
結局、話はつかず終いで、その日敏雄と律子は、早々と菊岡の家を後にし炭住地のそばのアパートに帰ったのだった。
「なんのことはなか。ていよく時間つぶしただけのことたい。エミの口車にのったつが運の尽きじゃった。お前にも悪かったな」
敏雄はごまかしたという気持ちはなかったが、心の底で渓流が音立て崩れそれが土砂を運ぶ前に塞き止められようとする、そんな取り繕う自分の蒼い顔が浮かび、どこかでそんな自分を嘲笑っていた。
そのときだった。
「お前、泣きよっとじゃなかつか」敏雄が、しばらくの沈黙の後、堪え切れず訊いたのは。律子は踞んでいた。背中を少しこちらに向け敏雄から顔が見えないぐらいに座っていた。敏雄がまた窓の外に目をむけると「うんにゃ」とか細い声が聞こえてきた。
それから五日して、律子は菊岡の家に入った。
敏雄は相変わらず帰りは十一時を過ぎていたし、海岸沿いではあるが少しでも病院に行くのに都合もよく、交通に便利な菊岡のほうが万一のとき良いだろうと律子の方から言い出したのだった。
「子供生むのにどっちでん同じやろ」
「そんなことなか。こっちとあっちじゃ全然違う」敏雄の方が反対に律子に宥められる形となり、それでも内心ほっとしたのか、敏雄には相手の真意などもうどうでもよくなった。
アパートには、敏雄一人が残ることになった。
九月になると、さらに海は凪ぐことを知らなかった。
大型で雨も風も強く降らす台風が南西の方角からやって来ていた。風のざわめきと言わず風そのもののような音が波の打ち寄せる海岸端からは聴こえてきた。
「敏雄さん、今度のえらいでかかみたいばい」
女の一人が、引きの船の中で心配そうに訊いた。この一帯も明日あたりからは暴風圏内に入るであろうことが予想された。
「貝掘りん方は大丈夫やろか」その不安をよそに、「台風がくれば、どぎゃんもこぎゃんもならん」敏雄は、あっさりそう答えた。
当然夏が終わってからは英治は来なくなり、今はまた由介と二人で船に乗っていた。由介は頂度船首の方にいて、女たちや採れた貝を間に挾んで敏雄と同じような恰好で前方を見ていた。敏雄は、今日船を出す前に由介が聞かせてくれた話をまた思い出していた。その話も今と同じようにかなり大きな台風がやって来、それが過ぎ去った次の日の昼前の話だった。敏雄はまだ生まれていず美佐江の腹の中にいた。
「なんさま、あれは凄かったぞ。瓦は吹き飛ばすわ、道路は水に漬かるわ。いややっぱそれより風が強かったね。あぎゃんまともに直撃したのは初めてやった」
由介は話の内容とは対称的に余り興奮するでもなく、いつもと同じ静かな口ぶりだった。まるで人にそれを聞かせ馴れた物腰にさえ思えた。敏雄はなぜかそんな父親の前で息が詰まりそうに思い、ただ突っ立っているわけにもいかず隣で煙草を吸った。
「どうも、そん日は朝から海が気になってな、そわそわすっとよ。もう四日、シーズン真最中ていうとに沖にも出られんで家でくだくだ酒ばっかりのみくさっとったけんやろね」 由介は似合わぬカタカナを使い、それが敏雄には可笑しかった。
「海に出ておったまがったぞ。そん日の干潮が来てすぐやった。台風は過ぎとってでんまだ風も強う吹きよったし、雨もまだ止んどらんやった。そぎゃん物好きなもんは他に誰もおらんで、父ちゃん一人そこにはおったたい。父ちゃんは、ここん浜に来て海ん様子ば見よったつ。やっぱりそん日も船ば出されんやったけんむしゃくしゃしとったつやろね。そっでん初めは、あれば見たときはほんなこつ雲仙岳がぼんやり見えよる思とったつぞ。雨も止みはしよったし、視界でん少しは良うなりよった。ばってん違うとたい。どぎゃん見たって違うとたい」
「どぎゃん違うとな」
敏雄も急いた。
どうしてか理由はわからないが敏雄もそれに似たものが今眼前にくることを知り苛立っている様子だった。蒼白い穏微なもやもやしたものが渦を巻き錯乱しているようで、それを払い除けたい気持ちで足下に煙草を乱暴に投げ捨てた。
「貝たい」
由介のその声を聞いたとき敏雄は予想が外れたのか当たったのかそのどちらともつかぬ思いで、躰の奥に一つ、確かに顫えるものを認めた。
「貝がそう沖でなかとこに、父ちゃんの背ん高さより高う山のごつ、頂度雲仙だけと重なるようにしてどっさり積まれてあったつぞ。そら父ちゃんも自分の目ば疑ったくさ。そっでん何十年も貝ばかり見て育ってきた自分の目たい。そうそう嘘ばつくもんじゃなか。父ちゃん、焦ってな。それからすぐ家に戻って母ちゃん引っ張り出すにも母ちゃん、腹ん中お前の入っとたけんどげんもできんし、孝造げ行っても信じてくれんけん。せからしなってトラック乗って、貝掘りん女ば拾て行ったたい。あたりかまわず声かけて乗れ乗れ言うて。騙された思てとにかく乗れ言うて。干潟飛ばしていったたい。抜かるんで出られんごつなることも何も考えんやった。もうそぎゃんこつはどげんでんよかったもん。菓子やん千代でんそん中ん一人たい。あんこつのあったけん今でん菊岡に義理もってくれとるやつはだいぶおる」
敏雄は半ば信じられない気持ちでありながら、美佐江からそのことは子供のころ聞いた記憶が多少あった。
美佐江もそれからどうしても由介の言うことが気になり大きな腹を抱え海岸まで歩き、その様子を一部始終見てきたという。
貝の山か何か知らないが堆い固まりが由介や女たちの中にどっしりと黒い影を落とし、音のまだひゅるひゅると猛っている余風といっしょに潮の香を運んできた。
動き回る女たちの姿も影となり、その黒い固まりに溶けるように吸い込まれまたそこから離れ、今度はそこに巣くう獣のようにもそれは映ったと言う。台風の夜中の風と潮の流れの影響でいつのまに一所へ吹き寄せられたのか、あんな信じれぬことも長く海のそばに生きていればあるのだと、美佐江はつくづく感心したという。
どこまでが本当の話かはわからなかった。敏雄には、それが由介の菊岡へ果たした自分の数少ない手柄話のようにも思えたし、美佐江とぐるになり敏雄自身生まれる以前のことにあれこれ着飾りをつけ、一つ絆そうと企んでいるようにも思えた。
「あの辺たい」由介は、腕だけがそこにあるというような皺だった手を差し出しその辺りを示した。
船は今、その指差されたところを通ったばかりだった。