「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『塔』・その4

               秋
 私たちの二回目の特集も好評の中に終わり、三回目の取材のときがやって来た。
 梨は、台風の被害を直撃しており、出荷前の一番実り多いときに哀れなほど大きな粒の実が枝から振るい落とされ、地面に散らばっていた。それでもどうにか梢にしがみついて時を待っているものが上空から見るとまさしく救いを捜しているように、秋の風と日を受け点在し、引き延ばすことのできない出荷の日を今か今かと持ち堪えているようだった。
 私たち、操縦士を含め、柄本の三人は先に岬へ回ってもよかったのだが、それはやはり仕事の段取りからやらず、一とおり取材を終えると、またあの海岸線へ当然のコースのようにして引き寄せられていった。
 灯台は、……なかった。
 「吉田さん、へんですね。灯台ありませんよ」柄本が狐につままれたようにきょとんとした顔になった。私は、セスナ機がぐるりと旋回する間、黙っていた。
 「どうします、もうしばらく飛んでみますか?」珍しく、操縦士の方から訊ねてきた。「そうだな……、」私はしばらく考え、「悪いが、山向こうの方をもう一度見てみたいんだ。そっちの方から帰ってくれないか」依頼者でありながら、既に顔馴染みになった者同士の親近感がそこにはあった。柄本に案内してもらった軍需工場と弾薬倉庫の跡地の公園のある場所だった。私はセスナ機の飛行に合わせ、岬から直進で山の麓まで、目に見えぬ地下道のようなものを追っていく、そんなたわいもないことを知らぬ間にやっていた。
 湿っぽい、それでいて唇が乾くような不快感を持つ隧道に、山林の中に底無しの落とし穴のようにつくられた通気口をとおって、どこからともなく縦に吹き下ろしてくる風が地下の澱んだ空気の層とゆったりと出会い、躯を包み込んだときもあったにちがいない。それは、私のどうしようもなくたわいもない空想だった。私は、なぜだか知らないが、軍需工場と塔とが地下道のような通路で繋がっていたのでは、と思い始めていたのだ。
 フォーチュン・ヒル
 私の頭に、すかさずこの言葉が浮かんだ。幸運の丘。この丘には確かに、塔があった。人々が眠る、あの大きな刻み模様を持つ塔が、そう頂度灯台のようにして、二つの影と影とを重ねるようにして立っていた。夏は熱い日射しを浴びしぶく黄金色に輝き、冬になると舞い散る雪に白く染まりながら、それでも人知れず息を潜め、ひっそりと呼吸する生き物のように立ち尽くし、波を受け、風を受け、深い彫りを一層外壁に刻み込み、私の夢の中の現実と目の前の現実とに交互に立ち現れていたのだ。しかし、なぜ突然、姿を消してしまったというのか。
 私は、『幸運の丘』の名付け親に会ってみたいと思った。町の役場に行ってみれば、それはすぐにはっきりすることだった。
 飛行場から戻った私は、別の取材で用のある柄本を社に残し、役場へ急いだ。
 町役場とは言え、その建物はなかなか立派なつくりをしていた。私は仕事の関係上からちょくちょくそこには出入りはしていたのだが、こんな要件で来るとは、まさか考えてもいなかった。窓口のカウンターには、他の課に混じって環境課と観光課が置いてあり、そのことは既に知っていたし、この質問の内容から、そのどちらかに聞けばはっきりするだろうことは予想できた。
 「実は、この丘について知りたいんだが」私は、持ってきていた地図を広げ、いつ頃、だれがあの名前を思い付き、あの石碑に刻み込んだのか訊ねた。
 「幸運の丘、ですね。ちょっと待っていて下さい」観光課で聞くと、若い、今年採用されたばかりの女の事務員が奥の課長のところまで行って、確かめてくれた。
 「わかりました。木村さんて方です。十二年前退職なさって今はお家の方にいらっしゃるんじゃないですか。退職される最後の最後まで、随分、あすこを保養地にするよう働きかけられ、尽力されたそうですけど」
 私は、その木村という男の住所を聞き、メモを取った。
 ついでに私は、地下道のことも訊ねてみた。
 「チ・カ・ド・ウ……ですか?」女の事務員は、ゆっくり繰り返した後、私の顔を不思議そうに見詰め、しばらく考えているふうだったがとうとう我慢しきれないように吹き出してしまった。「冗談は、やめてください」それからタイト気味のスカートから長く突き出した足で、軽やかにとまではいかないまでも馴れた身のこなしで自分の机へ戻っていった。それから、私の方を意識してか、しばらくこちらを見なかった。私は、自分のとっておきの憶測である地下通路の話をしたことを、少々後悔した。
 木村という男の家は、町と隣の町との境目に走る道路の北側にあった。呼び出しのブザーを押すと年配の女性が出てきた。木村の妻だった。木村のことを訊ねると、彼女の表情が俄かに曇り別人のようになった。明らかに何かを隠している顔だった。
 私は、彼女に、どうぞと案内され、家の中で話をした。
 木村は退職して一年たった頃、病気の徴候が出始め、今ではすっかり痴呆症にかかってしまい、町の中心部から少し離れた老人施設に入っていると言うのだった。
 「せっかく来てもらって、申し分けありませんが」彼女は、一切の質問も受け付ける暇を与えずに、丁重に断ろうとした。
 「いや、特別変なことを聞こうと思ったんじゃないんですよ。あの、海岸線にある、幸運の丘について、木村さんはかなり熱心に仕事に打ち込まれたとお聞きしましたものですから」
 「退職直前のことですね。ええ、私も覚えてます。主人は執念のようにして走り回ってました。上の関係機関にも出向いて、何とかあそこを保養地にして整備したいんだって家に帰ってきてからも何度も言ってました」
 私は、奥さんと、それに関するしばらくたわいもない話をした後、必要なことだけを確認した。
 「何か、そのころのことで残っている資料みたいなのはありませんか。または、日記であるとか。何でも良いんです。とにかく、あの幸運の丘について書いてあるやつでしたら」
 しかし、相手は残念ですけど主人の部屋には荷物一つありません、と言ってそれから口を閉じてしまった。やはり、最初にとった姿勢は変わらなかった。
 私は、少々絶望的になったが、最後の望みをもって、老人施設へ急いだ。
 施設は、街中からわずかに郊外に入っただけなのに、広い敷地には植林も豊かにされていて涼しい風が生成され、心地好く吹いてきていた。建物自体も新しく、4階建てのその上に貯水タンクと一緒に「夕陽山荘」と名前を大きく書き出した看板が取り付けてあった。
 入ってすぐのロビーで、私は見舞いに来たことを係の者に告げ、部屋を聞いた。木村の部屋は、2階のエレベーターで降りたところから右に出たその一番奥の突き当たりにあった。
 扉を開けると、そこには、幾つか観用植物がプランターに植えられ壁際に置いてあって、確かにホスピタルも兼ねているのだろうが、あくまで施設といった感じで、部屋のつくり自体日当たりも良く、広々としており、二人部屋になっていた。木村は、車椅子に乗って窓から外の景色をぼんやり見ていた。もう一人の老人は、散歩に出ているらしく、そこにはいなかった。私は、彼の車椅子にそっと手をかけ、踞み込み挨拶した。
 彼の顔は、筋肉の張りはなく、目元からなんとなく生気が失せていた。唇が下へ心なしか弛み、唾液が流れた跡が、その周りにはあった。それでも、その瞳は私を見詰め、何か訴えているようにも、また、誰なのか、それさえ気にならないふうに無気力にその下の黒ずんだたるみを抱え込んでいた。簡単に言えば、こちらに感じ取れるだけの変化が向こうにはなかったのだ。
 彼の妻が忠告してくれたように、ここへ来たのは無駄だったのだろうか。私に早速、悔いの感情が走った。私はせめて何か、最後の手掛かりでもないものかと、施設で彼を担当している職員や、医者に聞いてみた。しかし、何も収穫はなかった。さすがに落胆の色が隠せず、私は困り果ててしまった。
 仕方なしに玄関を出て、車を駐車させておいた場所へ行こうとしたとき、さっき医者を交え話をした女の職員が駆け足でやってきた。
 「あのー、吉田さんでしたね、これでよかったら、……」彼女は、数枚の紙片を持っていた。
 「あの人、ここにきた最初、通院っていう形で通って来られていた頃、熱心にこんなもの書いてたの。これ先生に見せたら機嫌が悪いし、悩んだんですけど。お貸しすることにします」私は、そんな彼女の屈託のない好意に礼を言った。
 「だってもしかすると、これに書いてある『独房』って、ここのことかもしれないじゃないですか。かりに、痴呆症患者特有の思い込みで書いてたとしても、ちょっと施設にはあんまり良い感じはしないですもんね。これで何かのお役に立つんでしたらどうぞ。そのかわり先生には内緒よ。私、こう見えても先生には、いろんなことで信頼されてるんです。だから逆に、あなたにこれをお渡しするの。わかる?」そこで彼女は、少し間を置き私の反応を確かめように、ことさら大きな瞳で見ながら、
 「つまり、この病院とこの文章、全然関係ないって、私信じてるんです。この施設、わりとこの町じゃ評判いいし。吉田さんだってそのことは御存知でしょう。先生たちも、勤めている人もみんな献身的だし。ここに来るお年寄りの人達にも誠心誠意で当たっているわ。だから、尚のこと、ここに書いてあることは、なんだか知らないけど、とても木村さんにとって大事なことのように思えるんです。極端な考えかもしれないけど、あの人にとって、これがゆっくり書けたことだけがここに来てよかったと、そんな気もするし。つまり、ここにはこれを書きにだけ来たっていう……、私の言ってること何だか支離滅裂でわからないでしょうけど、とにかく、お貸しするわ」
 「あなたの言ってることは、充分わかりますよ」私は、大きく二度頷いてからもう一度礼を言い、そこを出た。
 私は、それから車で適当な喫茶店に入り、コーヒーを注文し、そのノートを開いた。

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