「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『塔』・その6

              冬
 とうとう、この特集の最後の取材のときがきた。私たちは、天候の良い日を見計らってセスナ機を飛ばした。と言うのも、最初計画していた日に限って、まるでそれを予め知っていたかのように、珍しく雪が降ったからだ。
 「早いとこ、きちっとやってくれよ」催促する鹿島は、中肉中背の躯をこちらに向け、眉間に皺を寄せた。
 「焦ることはないさ」久具は、微笑を口元に貼り付け、私たちを励ました。
 そんな中で、久し振りに雪が上がった直後の、満を持しての出発だった。特集の締切きり期限が、間近に迫っていたのだ。
 上空を飛行しながら、私は操縦士に、
 「悪いが、今日は岬の方から行ってくれないか」普段になく、明るく努めて言った。 「了解しました」パイロットも、張りのある声で答えた。
 「吉田さん、果実の方は、いいんですか?」柄本が心配そうに、それでも躯は外に向けカメラを手にしたまま、扉越しにではあるが乗り出すようにして答えた。
 「そうやっていれば外がよく見えるから、今日がどういう状態かってことはわかるだろう」
 私は、真っ白な銀世界の下界を、止どめを刺すように顎で指した。
 「でも、チーフは、雪に埋まっててもいいから撮って来いって言ってましたよ」
 「誰も、取材をしないとは言ってない。先に、ちょっと岬を回ってくるだけさ」
 私は、まるで訊き分けのない子どもを宥め透かす親のようだった。相手は、ただ早くゆっくりと写真を撮影したいのだ。こんな、一面真っ白な世界を上空から、しかも自分の日頃住み慣れた町を見る機会が、そうめったにある筈がない。相手の気持ちも考え、私はそれ以上何も言わず、静かにしていた。
 柄本がそう言った理由で、もう一つ考えられるのには、あまり岬に近づきたくない心理が働いているかもしれないということだった。
 あの、幻を再び見るのが怖いのは、誰だって当然だ。私だって、そうだ。今となっては、明らかに現実には存在しないとわかっている灯台や、夢の中の塔を何食わぬ平常心で見れるわけがない。しかし、私の心のどこかに、やはりあの塔に魅きつけられる何かがあるのは、今更否定べくもない事実だった。
 夢の中で、私がその塔に近づくと、いつも決まって母の声がした。
 「そこに行っちゃ、いけないよ。近づいたらいけない……」
 母は、五年前に他界しており、ましてそんな見も知らぬ塔に遊びにいくなど、私には経験がなかった。
 それでは、あの声の主は誰なのか。母ではない、母に似た、別の人間の声なのだろうか。
 その声は、いつもそこに行ってはいけないと、心配そうには言うのだが、力づくで止めようとはしなかった。兵士の中を歩く私や、向かいの山に登って塔を見詰める私を引き戻すかのように声は訊こえてはくる。だが、そこにいてはいけないと繰り返すばかりで、腕を掴み、強引に家へ引っぱっていこうとはしないのだ。
 私は、ずるっずるっと、少しずつ塔へ引き込まれていっている自分に気づいた。
 セスナ機が旋回し始めていた。飛行機は、いつの間にか岬の上空に着いていたようだった。
 「吉田さん、あのとき見えた灯台は、もしかするとあの岬のこんもりした形が、錯覚でそういうふうに見えたのかも知れませんね」柄本が、私に話すというよりも、自分自身に言い聞かせるようにして言った。……『彼には、どうやら何も見えないらしい』
 しかし、私には、見えていた。
 塔が、あった。
 紛れもなく、あの塔が深い眠りから覚め、一つ一つの外壁の溝に埋められた硬い土を剥がされ、ゴシック調を映し出しながら、私の目の前にあったのだ。
 但し、私は、今、自分の視界に見えること一切を口には出さなかった。
 人々もいた。
 塔の周りに、夥しいほどの量だった。凄まじい数の人々が、微かに蟲のように身を捩らせていた。白い雪にまぶされ、顔だけを上空に向け叫んでいた。一つ一つ躯の動きまで見えたが、何か一言ずつ言い終わるとそのたびに一体の人間は、油が飛び散ったように動かなくなった。
 屍だった。雪の上に焦げたような跡だけをいくつも残していた。
 私は、思わず身震いがした。
 「いっちゃ、いけないよ」
 母の声がした。
 「わかってるよ。ちゃんと」私は、心の中でそう、少し撥ね返すように返事した。相手は黙っていた。やはり、母ではないらしかった。
 「もっと近づきますか、どうします?」
 操縦士の方も、柄本と同じく何も見えないらしかった。
 「引き返してくれ。もう充分だ」
 パイロットにも、柄本にもなぜかこのとき安堵の光が差したのを、私は知った。
 私は、もう一度、塔を見た。
 人間たちが、やはり、そこにはいた。                                  (了)
 

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