2 おばあちゃんが飼っていた白いねこ
絵里が、小学校へ行かなくなって、一年になります。
三人が、今のアパートにきて半年がたち、統合された学校や生活に、そろそろなれだしたときです。
その日、和子は、仕事先の市役所のつごうで、となり町へ出張し、絵里も祐一も富江たちの家にあずけられました。
祖父母との朝食をすませ、ランドセルを背負い、登校しようとした矢先、それはおこりました。
靴をはこうとした絵里は、それまでぴーんとはりつめていた何かが、突然音を立てくずれた気がしました。全身から力がぬけていくようでした。
絵里に、そんな感覚がおとずれたのは、その日が初めてではありません。父親とはなれて暮らすようになり、一月ほどたったころ、ある事件がおこりました。いつものように学校へ向かうスクールバスでのことです。
いつもだったら、バスの中で、祐一と窓ぎわの席にすわって外の景色を眺めています。でも、その日は、たまたま起きるのもおそく、それに祐一が風邪をひいて欠席することになったため和子もあわてて、すべてがばたばたでした。絵理も追いたてられるように、いそいでバスにのりました。
バスに乗ったときから、どことなく体がむずむずしていました。景色だけが、ただボーッとすぎていきます。前と同じ学校に通っていた友だちもいるのですが、新しい学校になってからはなんだか話しにくい感じです。そうこうしているうちに、少しずつ不安はひろがって、やがておしっこにいきたい気分にさせました。
バスは、だれかがのるたびにとまったり走ったりします。ゆれはじかにおなかにつたわって、絵理は、がまんしていました。
学校へ着いたとき、限界がやってきました。絵理はこわばった顔で、一歩、一歩ゆっくりとステップをおりました。ほかの子の声も耳をかすめますが、それどころではありません。
一番近いトイレへ行こうと膝に力をいれたときです。入口を目前にして、ふるえは、しびれにかわりました。ふとももに、温かなものがながれました。絵里は、はずかしさでいっぱいになり、階段下の下駄箱のすみで、小さくうずくまっていました。何人かの子が声をかけましたが、うなだれたまま、動くことができませんでした。
学校でかえの下着をもらって、帰りに洗濯してかわいたのにかえ、なにもなかったように、下校しました。
それから変な感覚は、しょっちゅうやってくるようになりました。アパートを出て、道路ぎわでスクールバスを待つ間からじょじょに始まり、乗ったとたん、いっぺんに彼女の頭の中であばれだします。
もちろん、教室に入ってからもつづきました。
友達の顔を見ても、相手の顔と声とが、日ごろ、絵里の知っている子とはどこかちがうようで、近よるのもこわくなってきました。先生も同じです。とてもやさしくて好きな先生が、その日から少しずつそばへいくことができなくなり、向こうから、ひそひそ声が聞こえるようになりました。さいしょはよく聞きとれませんでしたが、それがだんだんとはっきりとしてきました。トイレはもうすませたの? おもらしはしないわね? またするんじゃないの? と、しつこく聞いてくるのです。
絵里は、そのたびに胸が苦しくなり、もう、二度としないから、と言おうとしますが、どうしてもそれができません。
いよいよ登校できなくなる、三日前のことです。
学校では、月に一度、学年ごとにクラス対抗のスポーツ大会が行われます。絵里も選手の順番がまわってきて、リレーを走らなければなりません。彼女は、なんとなく不安でした。あの感覚が、その日はずっと、朝、起きたときから始まっていたからです。心配していたとおり、バトンをもらう寸前にあばれだしました。
白線の上に、他の組の子といっしょに立っていたときです。
クラスのみんなが、自分を応援してくれているのがよくわかります。でも、その声援がよく聞きとれません。
どこからかあの声が聞こえました。
みんなは、ほんとうはあなたのことなんか応援したりしてないわよ。おもらしをするような子は、ころべばいい、ぬかれてビリになればいいと思っているの。
絵里は、どうしていいのか迷いました。足音は、地ひびきのように迫ってきています。彼女の手には、もうじきバトンがわたさせるのです。
そのとき、声がはっきり言いました。
あなたは、そこにいたいの、どっちなの? 絵里は、いたくない、と答えました。するとすかさず声は、返事をしました。そう、だったら立っていることはないわ。すわりなさい。
絵里は、走りだすことも、立っていることもできず、その場にしゃがみこんでしまったのです。
玄関にいる絵里も、急に泣きだし、リレーのときと同じにかがみこみました。
祖父の繁が、強くしかり、手をひっぱり外へ連れ出そうとしましたが、石のようにかたまって動きません。それどころか、はっきりと、前から学校なんか行きたくなかったけど、我慢してたと泣いて訴えました。
すぐに、和子に連らくがされました。
低めた声で母親に電話で説明する富江の言葉を聞きたくなくて、絵里は両手でつよく耳をおさえていました。それから祐一が帰ってからも、絵里はほとんど無言で過ごしました。祖父母もむりはせず、様子を見ることにしました。
夕方、母親が玄関の扉を開く音がし、富江がすかさず出ていきました。
押しころしたように、自分の今日一日の様子が伝えられると、絵里はさらにイライラしてきました。廊下を歩く母親の足音を耳にしながら、できるだけいつもとかわらぬ態度をよそおい、祐一のとなりでテレビの画面へ顔を向けていました。
和子は、二人を連れ、アパートへ帰りました。
「えりちゃん、ママ、えりちゃんが学校へ行かなかったことをおこるつもりはないのよ」
アパートへ着いてから、和子はやさしい声で話しかけてきました。絵里は、黙ってソファーに背をもたせました。
「お願い。何があったのか話してくれる?」
しだいに言葉と言葉との間かくが短くなる母親を、絵里は、祖父母の家にいたときには見せなかったすさまじい顔で、にらみかえしました。
やがて目には、堰をきって涙があふれ、頬と唇はゴムのようにふるえだしました。和子の瞳も、気迫におされるように、うるんできました。和子は絵里の手をしっかりとにぎりました。
絵里は座ったまましゃくりあげました。そばにあったピンクのクッションをわしづかみにし、顔を押しつけ、哀しくてやるせない声を胸の底からしぼり上げました。
和子は、泣きつづける娘の横にすわり、肩をだきよせ見守るほかありませんでした。祐一がテレビを見ながらも、ときおり二人に、不安な視線を向けていました。
機織りをする孫娘を見ながら、富江は、三か月ほど前、自分の家へ父親の晃から手紙が来たときのことを思い出していました。
絵里が学校へ行かなくなったこと。調子がわるいとき、朝から母親や富江に物を投げつけたり、蹴ったりして荒れている話を和子本人から聞き、それが自分のせいではないか、そう考えれば考えるほど胸が痛むことが書かれてありました。和子や絵里の目の前で物をこわしたり、和子に暴力をふるったことをわびる文面の後、今度会ったときは、必ず二人の子どもと母親に心からあやまりたいとそえられていました。
「このへんのねこや犬だって、飼ってみればかわいいもんだよ」
富江が、手紙を受けとったときのやりきれない気持ちをふっきるように、なにげなく新聞をめくりながら話しかけました。
「でも、おばあちゃんち、なんにも飼ってないじゃない」
絵里の脳裏には、動物の瞳が浮かんでいます。
「おばあちゃんが小さいときは、ねこを飼ってたんだよ」
意外な祖母の声に、
「えっ、ほんと」
案の定、織り機の手を休めのってきました。
「それって、もしかすると白いねこ」
「あたり。よくわかったね」
絵里の胸の中は、驚きでいっぱいでした。
富江は、自分が絵里と同じ年ごろだったときのことを回想しはじめました。なつかしそうに額にしわをよせ、目を細めたりしています。
あの日、富江の両腕には、白く小さく、そしてもぞもぞと動く子ねこが二ひきだかれていました。
ひろってきたねこを飼うことを富江の母親は猛反対しました。家を汚すというのが一番の理由です。
「いいだろう。猫の一匹や二匹」
そばで聞いていた父が言ってくれ、富江が世話をすることを条件に一応、解決しました。
「昔の家は、玄関が広い土間になっていたの」
絵里は、富江の方へ身をのりだすかっこうで聞いています。
「そこで飼おうと思ったの?」
「そうだよ。おばあちゃんの家は海べただったから、アサリ貝とか小さな魚とか、ちょっと海辺にいくと岸に上がっていてね。それを餌にひろってきてたんだよ…だけどね……」
富江の表情がくもりました。
「そうしたら、あるときいなくなったの」
「もしかして死んじゃったの? 二匹とも?」
一挙に声が、はねあがりました。矢つぎばやの質問にも、富江は、できるだけ静かに答えます。
「悲しかったよう。いっしょうけんめい育てていたから」
「死んでるのが見つかったの?」
「うん、おばあちゃん、せいいっぱいさがしたんだ。そしたら縁側の下のすみに白い毛が見えてね」
「それが子ねこの死体だったんだね」
富江はそんな絵里の言葉に、こっくりうなずきながら、
「びっくりしたよ。いきなり死んでしまったからね」
落胆するように肩をすぼめました。
「でも、もう一匹の子ねこがみつからなかったのよ」
「その一匹も、死んだんじゃないの?」
富江はかるく首をふり、
「ううん、おばあちゃん、どうしても生きてるって思ってたの。だからそれからもしばらくは、小魚をお皿に入れて置いておいたんだよ」
首をかたむけ絵里の顔を見つめ、
「そしたらね、かならずなくなってたんだ」
「わあ、よかったね。だったらやっぱり生きてたんだ」
絵里も両手を合わせ、拍手するような動作をしました。
「うれしかったよ。きれいにたべられてたから」
富江も、無邪気そうに笑いました。
「ところがねえ、ある日、居間にいたら土間の方でまたかさかさ音がして、くちゃくちゃ魚を食べてる音がしたの。おばあちゃん、うれしくなってね、こっそり襖を開けて見てみたんだ」
絵里の胸も高鳴り、大きなまばたきを知らず知らずくりかえしていました。
「そしたらね……」ひと呼吸置き、「タヌキみたいな、まるまると太ったねこがゆっくり首をまわして、おばあちゃんをにらんだの。見たこともないような大きなねこ」
富江は口をふくらませ、息を吸いこみました。
「大きな猫?」
絵里も思わず声を上げました。
「そう、こんな」
両腕を肩幅ぐらいに広げ、輪をえがきます。絵里も目を大きく見ひらき、
「そのタヌキねこが子ねこをたべちゃったんじゃない」
わざとすました声で聞きかえしました。
「おばあちゃんもそのときは、よくわからなかったよ。ただ必死で、そばにあった竹ボウキをつかんで、タヌキねこを追いはらったんだ。おそいかかってきそうだったし。こわくって」
絵里の顔も、だんだんと真剣になってきています。富江は、おだやかな口調にもどりました。
「まさか食べたりはしないだろうけどね、でもようやく近頃、ピンときたの。あそこはそもそも、あの大きなねこのなわばりだったんじゃないかって」
「自分の庭みたいなもの?」
「そうだね。きっと、前からよくそのねこはきてたんだよ。でも、小さな子ねこがいたもんだから、外へ追い出したんじゃないかと思うんだ」
「育てるぐらいしてもいいのに」
「自分の子どもじゃないからね。どんなに小さくったって、なわばりにきたら、あらしにきた一匹のねこなんだよ」
「だったら、もう一匹の子ねこはどこにいったのかな」
「おばあちゃんは、やっぱりどこかにくわえて連れだされたと思うんだけど」
それから、最後にポツリと言いました。
「小さいときぐらい土間じゃなくって、家の中でしっかり世話してあげればよかったんだけどね」
絵里には、姿を消してしまった子ねこのおびえる目が見えます。瞳の表面はみずみずしく、輝いています。目はくぼみからはなれ、宙をただよい、絵里のまわりを光の渦でつつみます。まるで二つの星のように、光は線をえがき、絵里の体のすみずみにとどきます。透明な輝きの満ちる中で、絵里はポッカリと宙をただよっているようです。
「機織りやろう」
思いだしたように織り機の前に腰かけました。
毛糸のたて糸は、上下半分ずつにわかれ、その中を長い流線形をした平たい板に巻かれた横糸をとおしていきます。ペダルを上げ下げし、前にやったり後ろにやったりし織りこむことで、縦横に交さくした模様はできあがります。
「えりさん、ずいぶん上手になったね」
「まあね」
絵里は得意げに答えました。カタカタと音がなり、単調な作業が、なれた手つきでこなされていきます。