「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『白ねこと少女』その3

 3 消えてしまった白いねこ
 井手向こうに飛びはねていってからというもの、白いねこは、絵里の目の前にあらわれなくなりました。
 「どうしたのかな」
 絵里は、しばらくの間、なにもいないかわらを眺めては退屈な思いですごしました。
 そんなある日、絵里と祐一は和子の車で急きょ、病院へ向かうことになりました。祖父の繁が、銀行へ行ったとき、雨でぬれた階段でころんだのです。知らせを聞いた和子は、仕事を早退してきました。
 頭のうしろと腰をつよく打ち、救急車で運ばれたとのことでした。
 病院は白っぽく、ところどころ凹凸のある壁紙でおおわれていました。掌でなでると、ざらざらしています。
 祖父が寝ている病室になんとなく入りずらかった絵里は、廊下で壁に手をあて、さする遊びをつづけていました。
 「えりちゃん、おじいちゃんが顔を見たいって」
 先に来ていた富江が部屋から顔をだし、絵里を呼びます。
 学校に行かなくなった最初の日、つよく叱られたこともあってか、絵里はどこかで繁を避けていました。
 「おねえちゃん、おじいちゃんのことがきらいなんだよ」
 祐一がふりむきざま言うと、和子がすかさず、たしなめました。
 部屋は、甘いクリームの匂いがしました。香りが鼻の奥へひろがります。祖父と顔を合わせずらかった絵里は、一歩一歩、重い足どりで近づきました。腰のあたりの布団が大きくもりあがっています。右足はギブスで固定され、クリームの香りはそこからしています。
 繁の顔は、腫れたようにむくんでいました。横になっているので、いっそう皮ふがたるんでいるようです。あれほど元気だった祖父が、絵里には信じられません。表情をくずせばくずすほど、むりをしていることがわかります。
 「えりちゃん、ありがとうね」
 繁は、寝たままの姿勢で首をわずかに持ち上げ、ゆっくりとしゃべりました。声に力がなく、かすれています。
 「おじいちゃん、だいじょうぶ?」
 絵里も、こわごわたずねました。
 「ここのところに」
 富江が自分の太もものつけ根をさすり、
「ヒビがはいっているらしくてね、少し長引きそうなの」
一歩近づき、説明してくれました。絵里も、不安げに眉を動かしました。
 それから富江は、これからしばらくの間、毎週木曜、どうしても繁の看護のために病院へ行くことを告げました。
 「ごめんね。お洗濯物とか、いろいろしなきゃいけないことがあるし、それにお医者さんが、けがの経過を見て大事な話をしてくれる日なの。おばあちゃん、おじいちゃんのそばについてもいいかな」
 「うん。いいよ」
 絵里は、はっきりと答えました。
 和子と祐一の三人で病室を出た絵里は、さっそくマスクをはめました。
 エレベーターに向かったときです。
 祖父の病室から四つめの扉が開き、見おぼえのある厚手のジャンバーの人があらわれました。
 足もとを見ると、裸足にサンダルばきです。
 島さんです。
 島さんは絵里に気づくと帽子をとり、頭をちょこんと下げました。絵里は、びっくりし、とっさにかるく手をふると、島さんも目を細めました。
 玄関に出たとき、自動ドアのすぐ横に島さんの自転車が置いてありました。前輪の横にはプランターがあり、紫のヒヤシンスが日を受けています。
 「えりちゃん、なに見てるの?」
 ふと気づくと、立ち止まっていた横へ和子がやってきました。祐一は、車の方へスタスタ歩いています。
 「ううん、なんでもない」
 かたい口調で答えながら、島さんのさっきの顔を思いだしていました。
 その週の日曜、絵里はまた祖父を見舞いました。
 プランターの横には、ママチャリ自転車があります。それだけでなんだかうれしくなり、病室が近づくにつれ、よろこびは大きくなっていくようです。
 繁の顔を見た後、さっそく、ジュースを買いにいく口実で外へ出ました。
 さりげなく、島さんの部屋へ目を向けます。わずかに扉が開いています。足をとめ、中をこっそりのぞきこもうとしたとき、扉が動き、島さんがあらわれました。
 「おや、おじょうちゃん、また会ったね」
 絵里も、挨拶がわりに片手をほんの少し上げ、
 「だれか入院してるの」
小声でたずねました。
 「おやじがね。もうふた月になるんだけど」
 表情は少ししずみがちです。
 「どこがわるいの?」
さらに小さくささやくようにたずねます。
 「どこがって、もう年だからね」
 絵里が、ふうんと首を動かすと、今度は島さんの方から、
「おじょうちゃんの方は?」
皮ジャンのポケットに両手を突っこみ、聞き返してきました。
 「わたしはおじいちゃんが、銀行でころんだの」
 「そりゃ、たいへんだ」
 島さんは、自分が足をくじいたように、痛そうに顔を顰めました。
 「ところで、おじょうちゃん、カゼはなおったの?」
 マスクのことかとピンとき、そのままこくりとうなずきました。その日は日曜だったので、マスクはしていません。
 「おじょうちゃんの名前、まだきいてないね」
 絵里は、なんとなく安心してきたので、自分の名前を教えました。
 「えりちゃんか。よかったら、おやじに会っていく?」
 それには、首を横にふります。
 「そう。だったら、おじさんも日曜はだいたい来てるから、また会えるといいね」
 ぼそりと告げ、絵里も黙って、そこを去ろうとしました。でも、途中でふり向くと、
「早くよくなるといいね」
そう言って売店の方へ走りだしました。島さんもうれしそうに笑いました。
 病院の帰り、まだ時間も早かったので、三人は近くのデパートによりました。晩ごはんのおかずの材料を買うため、食品売り場へ向かいます。
 冷凍食品のところを歩いていると、男の人が、小さな声でぶつぶつ一人ごとをつぶやきながら、焼きギョーザの袋を手にとり眺めていました。そこへ、紺色のトレーナーにジャージ姿の人がやってきました。
 「また、こんなところにいて。何回言ったらわかるんですか。買う物は、カップメンとかお菓子だけですよ。どうせ、火は使えないんですから」
 あからさまに言うと、周囲を見まわし、場つくろいのように頭を二、三度かきました。絵里は、なんとなくいやな思いがしました。
 「ああ、ホープヒルの人たちね。ここに買い物に来るんだわ」
 和子が、かちかちに凍ったピラフをかごの中に入れながら、ちらりとそちらを見て、つぶやきました。絵里もホープヒルの話は、どこかで聞いて知っていました。
 インスタント食品の売り場を見ると、ぞろぞろ十人ぐらいの人が列をつくり、歩いています。どの人も背をまるめ、だらりと手を下げ、くらい表情をしていました。目を見るとうつろで、静かに品物をとっては、またもとの棚にもどしていきます。ギョーザを見ていた人も、若い職員に腕をつかまれ、その中へつれられていきました。
 一週間がたちました。次の日曜、ママチャリは、同じ場所にありました。
 絵里は、さっそくジュースを買いに病室からぬけだしました。
 彼女はどこかであせっていました。それというのも、来るとき見た島さんの部屋が扉がきれいにあけられ、間仕切りのカーテンも隅によせられ、中がのぞけたからです。
 個室にはベットも、人の気配もなく、がらんどうでした。
 絵里は、つよい動悸をおぼえ、下のロビーへ走り出ました。
 自動販売機にコインを入れ、パック入りのジュースを出しました。あわててそれをつかみ、はなれようとしたとき、絵里の立つ廊下の一番奥に人影が浮かびました。
 ラバーばりのパイプの椅子に見おぼえのある男の人が、しょんぼりと肩を落として座っています。
 まちがいなく、島さんです。
 非常階段に一番近い場所に、そこだけ黒い紙の切り絵のように、はりついていました。
 絵里は勇気をだして近づいていきました。数メートルまでいくと、島さんが、同じジュースのパックを持ち、ストローをぼんやりとくわえています。
 彼女に気づいたのか、最初、とまどったふうでした。しかし、すぐに椅子に深く腰をかけなおし、大きく溜息を一つつきました。パックをふいごのようにふくらませ、それを小さな風船のようにパンパンにします。ジュースは完全に飲み干され、空になっているようです。
 絵里は、一歩、足を運びます。手をのばせばとどくところで、じっとしていると、島さんは、悲しげに眉を細めました。
 絵里はジュースを持ったまま隣に腰かけました。島さんの口がそれに合わせるかのように、ストローからはなれ、ゆっくり開きました。
 「おやじが、死んじゃったよ」
 「……」
 絵里は、なんと言っていいのか、わかりませんでした。体が金しばりにあったように動きませんでした。

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