5 古い写真の中の白いねこ
風邪がすっかりなおり数日して、島さんと約束した木曜日がやってきました。
その日、朝から絵里の心は落ち着きません。島さんの家に行った方がいいかどうか悩んでいたからです。行きたい気持ちがもたげてくると、すかさず不安がおいかけます。
地図によれば、家は井手向こうにあります。学校の方角とは反対です。店の立ちならんだにぎやかな通りまでの近道が書かれていて、車がけっこう多くとおる道路に面しています。人目につかないためには、井手をこえ、直接、空地に入っていく方法がありそうですが、ガードと井手をまたぎ、大きなママチャリで行くのは、どだいむりな話です。
「そういえば……」
あのときの場面が、絵里にうかびました。
自転車とぶつかりそうになったとき、白ねこがあらわれました。ねこは、ガードレールをしゃがんで、この方角へ消えていったのです。絵里に、不安をふきけすかすかな期待がよぎります。島さんの家をたどれば、どこかにあのねこがいる予感がしたのです。
『っぱり、家に案内してもらおう。もしかしたら、ねこに会えるかもしれないもの』
祐一につづき和子が出勤した後、絵理は、島さんがきていないか、子ども部屋からのぞきました。一回のぞき、二回のぞき、一分おきぐらいに見ていると、やがて約束していた時間をすぎ、ソワソワしました。三度めにカーテンをあけたとき、見おぼえのあるママチャリがあらわれました。乗っている人はもちろん島さんです。
「アレッ」
絵理は、思わず小さな声をあげました。
島さんは自転車競技やマラソン選手がよくつかう、太陽の光をキラキラ反射させる、少し大きめのサングラスをかけていたからです。
皮ジャンとサンダルに帽子という格好さえ目立つのに、鏡のようなサングラスはとてもへんです。
絵理は、おかしさをこらえながらマスクをはめ、アパートを出ました。
「えりちゃん、ちょっと遠いから後ろにのっていいよ」
島さんは、サングラスの向こうから、はしゃいだ声で言いました。
「だめよ。二人乗りは禁止されてるもの。わたしは歩いていくからいいよ」
絵理は、さっさと先をすすみだしました。
「あっ、そうだ。えりちゃんは一輪車にのれるんだから、なんなら、それでもいいんじゃない?」
島さんが真面目な顔で言います。絵理は相手にしません。
「わかったわかった、おじさんもおしていけばいいんだ」
大発見でもしたように自転車から下り、ハンドルをにぎったまま歩きはじました。ところがしばらくたってから、今度は島さんの方がなかなか前へすすません。
「どうしたの」
絵理が聞くと、
「じつは、えりちゃんにたのみたいことがあるんだけど」
神妙な顔です。
「おじさん、ハンバーガーって食べたことないんだ。テレビで宣伝してるけどお店にいったことがないんだよ。よかったらいっしょに買ってくんない。ごちそうするから」
そんなところへ行くなど予想していなかった絵里は、おどろきました。それでも島さんは、なんとかたのむといった表情で、眉をサングラスの上から八の字にします。
「いいわよ。でも、あんまりゆっくりしないでね」
返事を聞いた瞬間、まんべんの笑顔になりました。
二人は、ようやく歩きだしました。
ママチャリは、タイヤがまわるたびに、きしんだような大きな音をたて、両手でおす島さんの背中が、のそりのそりと動きます。絵理は、ずっと島さんのかげにかくれるようについていきました。
交差点で島さんがとまります。井手ぞいにまわれば、島さんの家にいけるはずですが、反対方向の、さらににぎやかな国道を目指しました。
島さんには、ああ言ったものの、絵里は、だんだんと店の中に入ることが不安になってきました。でも、いまさら引きかえすわけにもいきません。
ハンバーガー屋の大きな看板とドライブスルーの標識が見えてきます。店には数人の客がいて、ドライブスルーには車はいません。
彼女に、いいアイデアが浮かびました。
島さんは、駐車場につくと、スタンドをいきおいよくけって、自転車をとめています。
「おじさん、ドライブスルーで買おうよ。自転車に乗ったままでもいいんだよ」
「へっ、そんなことできるの」
島さんは、信じられなさそうです。
「ほんとだよ。外から買えるの」
絵理は、その場からだいたいの説明をしました。
「そりゃあ、便利だね」
買えることが納得できると、やる気満々になってきました。
「あそこで言うんだよ」
絵理は、車の停止位置を指でしめしました。
「それからマイクでね、チーズバーガー、フィッシュバーガー、それにポテトのLってたのんで」
絵里の言った言葉を島さんは得々とつづけます。
「チーズバーガーとフィッシュバーガーを一つ。ええとええと、それからポテトのLだっけ」
「いいよ、いいよ。その調子」
島さんをおだてながら、受取り口を教えました。
「注文がすんだらね、あっちの方にまわっていけばいいの」
ふむふむと合点したようにうなづきます。
「あとはお金をはらえば、ぜんぶすむからね」
練習が終わると、彼女は少し離れた場所で見守ることにしました。
自転車にまたがった島さんは、わざわざスピードをつけドライブスルーに入りました。ブレーキをキュッといわせ、背中をかがめ、唇をマイクにくっつくくらいにもっていきます。
首を少しかしげ、声が小さくなっています。
緊張のせいか『ポテト』の言葉が出ないでいるようです。
ほっとくわけにもいかず、絵里は手助けしました。
「ポテトのLサイズだよ。おじさん」
マスクをはずし、大きな声で言います。
「ああそうだった。ポテトのLください」
受けとり場所を指でさします。島さんもそれにこたえるように、ほこらしげにペダルをこぎ、移動しました。
窓口の若い女性の店員が、クスクス笑って、吹きだすのをがまんしている様子です。そんなことはおかまいなく、島さんは、ママチャリにまたがり、待っています。サングラスがまぶしく光ります。ちらりと絵里の方を向き、余裕の笑顔まで見せだしました。
やがてハンバーガーの入った袋がわたされ、島さんは財布からお金をはらいました。しかし、そこから取りだしたのはそれだけではありません。大事そうに名刺まで差し出しています。店員は困ったふうでしたが、頭を下げました。 「やったね。おじさん」
絵里は駆けより、背中をポンとたたきました。
ママチャリのかごに袋を入れ、二人、またもと来た道へ引き返しました。
絵里は歩きながら、なんだかうれしくてしょうがありません。
島さんの家につきました。
建物は、写真と同じように昔、店をしていたつくりです。
玄関には木づくりの扉があり、大きな切り株のような取っ手がついています。絵里は島さんの置いた自転車の横をすりぬけ、島さんと二人、裏の勝手口へまわりました。
サッシ戸の小さな扉に、鍵はかかっていません。
扉をあけ、一歩中へ入りました。
薄暗い部屋です。ほこりをかぶった、どこかカビくさいにおいがします。でも不思議とこわい気がしません。少し奥へすすむと、天井には、星空のようにあちこちにライトがうめられ、いっせいに点灯しました。厚い一枚板でできたカウンターが浮かび上がり、流しのとなりの棚にならべられた色りどりのコーヒーカップを映し出します。
スイッチをつけた島さんが、カウンターの下にしゃがんでいます。サングラスははずしていました。
「えりちゃん、さっきはありがとう」
そう言いながら、袋からハンバーグやポテトをとりだしました。
「あれ、カゼのマスクはしなくていいの?」
島さんにそう言われ、絵理は、ハンバーガー屋からマスクをはずしていることに気づきました。
「まっ、いいか。お礼にこれ食べてよ」
店の壁一面が、下向きにつけられた白熱灯でほんのりと照らされ、明るさをましています。
光は電球の傘を中心にひろがり、しだいにうすく溶けていきます。
模様があるように思えた壁は、よく見ると写真がびっしりとはってあります。照明の反射で、一枚一枚が光っていました。写真でないところにも、便せんや葉書がすきまなくはられています。
「アルバムやタンスの引き出しからあつめて、はったんだ」
「これは?」
絵里の目は、モノクロの一枚に釘づけになりました。一匹の動物が写っています。
「むかし飼っていたねこ」
「ねこ?」
絵里の声は上ずりました。
「ねこって、もしかすると白いやつ」
「えりちゃん、どうして知ってるの?」
島さんも驚いたように、目をまるくしました。
「わたしの家のとなりの屋根にもきてたの。おじさんと最初に会った日もね、一輪車の前をとおりすぎて、こっちにきちゃったんだけど」
「へえ、そう」
島さんは、感心しました。
「それに、わたしのおばあちゃんも、小さいとき飼ってたんだよ」
写真のねこは、階段の真ん中で横になり、脚をのばしていました。毛色や目の色がほんとうはどうなのか、古い写真なので、はっきりとわかりません。
「近くにすてられてたねこでね、ジャックって名前だったんだ。片目がつぶれてたから。でもけっこう長生きしたんだよ。えりちゃんにも見せたかったな」
それから島さんは、なつかしむように目もとを細めました。
小さな赤ん坊が男の人にだかれている写真もありました。男の人の顔は、今、目の前にいる島さんそっくりです。
「これがおじちゃんとおやじだよ」
写真は、つぎつぎとピンでとめてあります。
赤ん坊は、やがて半ズボンをはき、乗り物にのってポーズをとりはじめました。
「この人は?」
スカートをはいた女の人を指さしました。
「おふくろ。小学校のとき死んじゃったけどね」
男の子は、女の人のすぐ横で、白い歯を見せ笑っていました。
少年は、やがて中学生ぐらいになりました。だけど、学生服や友だちとの姿は一枚もありません。どれも一人か、あとは父親か母親とのものです。ときに、流行りの帽子をキザっぽくかぶったり、むずかしそうな顔で腕をくんでいます。写真がすすむにつれ、しだいに大人になり、風ぼうが今の島さんになりました。エプロンをつけて店で働く姿になり、フィルターにお湯をそそぐ一枚がありました。表情は今とかわらず、のんびりと気ままにやっている感じです。絵里がもらった写真と同じように、父親といっしょに肩を組んでいるのもあって、背中にはクリスマスツリーがかざりつけてありました。リースも扉にかけてあって、今にもクラッカーの音がしそうです。
店の改築の写真もありました。内装がこわされ、柱がむきだしになっています。壁が少しずつはめこまれ、美しい壁紙や塗料がぬられています。なにもなかった板ばりのフロアにテーブルや椅子がならべられていきます。
絵里が写真に見とれていたときでした。
裏口の扉が開く音がしました。床を、一歩一歩、きしませ近づいてくる足音がします。絵里は、すぐにマスクをはめました。お腹に、じんと重いものがきました。
島さんは、安心させるように絵里に目配せしました。
背広を着た人が、頭を柱にぶつけないよう用心しいしい、前かがみで入ってきました。髪の毛から、鼻をつく油っぽい匂いがします。
島さんに簡単な挨拶をすませたあと、
「どこの子どもさん?」
「うん? オレのおともだち」
絵里の方をちらりと見ましたが、後はあまり興味なさそうに島さんの方をふりかえりました。少し急いでいる様子です。
「島さん、やっぱり、ホープヒルに入るつもりはありませんか?」
「ないよ。ぜんぜん。あんたもしつこいね。おれはこのままがいいって言ってるでしょう」
返事を聞くと、案外とかんたんに引き下がりました。もめごとが起きなかったことに絵里はホッとしました。
相手は、今度は、ニンマリし、声色をかえ、
「それはそうと、新しいの、かりにきましたよ。そろそろ買うころだと思って」
それまでとはちがい、親しげな様子でしゃべります。
絵里のとなりを慣れた足どりですぎ、壁ぎわにある縦縞のカーテンをあけました。
スチール棚には本のかわりに、こぼれ落ちそうなぐらいにたくさんのビデオがならべてあります。カバーには、男と女の人が裸で抱きあうプリントがしてありました。
「てきとうに好きなのをもっていっていいよ」
島さんにそう言われ、相手は満足そうに三つ選びとり、肩にかけていたショルダーバッグにつめました。
「サンキュー。またしばらくしたらきます」
「いつでもどうぞ」
島さんは、満足そうに答えます。
「好きだね。これだけはわすれずにくるんだから。こんなのどこがいいのやら」
男が立ち去った後、島さんはひとり言のようにつぶやきました。
「わたし、帰る」
彼女は、急にそこをはなれたくなりました。いっときも早く外に出て、空気を吸いたくなりました。
『みんな、キライだ。白いねこなんかもウソだ。ぜんぶでたらめだ』
島さんの呼び止める声がした気がしましたが、だれなのか、何の音なのか、わかりません。少しでも早くアパートに着きたかったので、思いきって、空き地をつっきる方法をえらびました。そこなら島さんが自転車で追いかけてくる心配もありません。
来た道とは反対側から、空地へ入りました。
足を踏み入れたとたん、少しこわくなります。人気がなく、それでいて、向こうからいきなりだれかがあらわれそうです。そのたびに息をととのえ、じっと先をうかがい、急ぎ足で、またつぎの草かげをめざしすすみました。
草むらをこえたところに、古い建物がありました。
絵里はとりあえずそこまで走りました。
地面は大きな石ころや、雨のふったあとの水たまりやへこみもあって、でこぼこしています。建物は、そばにいくと意外に大きく、うらがわから、お風呂の浴そうや水道管がむきだしになっているのがのぞけました。かべはところどころはがれ、板がくさっています。人が歩いたらしい、はっきりした道の跡もあり、絵里はそこをたどっていきました。
やがて井手の流れる音と車の音が聞こえ、こわれかけたブロックべいが近づいてきました。
へいの向こうにアパートの屋根が見えます。
どれだけ歩いたのか、よくわかりません。
クラクションの音がします。井手の前で、左右を見、だれもいないのをたしかめます。ガードレールの切れまめがけ、なんとか着地できました。
玄関を開けます。家の中は静まり返っています。絵里は二段ベッドの上で布団にくるまり、小さく身をちぢこませました。
それから、ひと月が過ぎようとしたときです。
陽射しは強まり、アスファルトの照り返しがまぶしい季節になりました。
絵里は、夏ものの買い物をしに、親子三人で車で出かけました。
車は島さんの家の前をとおる道を走っています。
絵里は、ふだんどおりすました顔です。
「細い道だけど、けっこう町まではやくつくのよ」
車は、左へそれ、ガードと井手に囲まれた空地を、外からまわります。遠まわりなのに、車だと絵里が空き地の中をこえたのより何倍も早く着きました。
「この道をもっと広くすれば、今より便利になるのにね」
和子はハンドルを動かしながら、話しかけます。
やがて、見おぼえのある家が近づきました。車は、手前の信号で停車しました。
「何かあったのかしら?」、
救急車が止まっていて、表に人があつまっていました。
絵里は後ろの座席から、何気ないふうに見ていました。
患者は車内に運ばれているらしく、救急車はサイレンを鳴らし、出ていきました。見物人も、すぐにあちこちへちっていきました。
ママチャリが一台だけ、ポツンとそこに残されていました。