6 炎を駆ける白いねこ
その晩、絵里は近くやってくるかもしれないことを想像しました。
場面は、昼下がりの午後です。
買ったばかりの服に着がえています。買い物でえらんだ黒っぽいワンピースです。
彼女の足はまよわずに、島さんの家へ向かいます。見えない糸にあやつられているように、裏の空き地を、知らず知らず動いていきます。空き地は絵里だけに用意された秘密のとおり道です。絵里の背をこすぐらいにおいしげった草もブロックや建物の壁も、今では身をかくせる大事な場所です。
島さんの家には黒と白の布の幕がひかれています。葬儀に訪れた人は、悲しみにくれ、その中で一人だけ、見おぼえのある男の人が真面目な顔で案内しています。
絵里は男に気づかれる距離までわざと歩きます。そのうち相手と目が合ったとき、わざとマスクをはめます。相手はそんな絵里をまじまじと見つめます。
「あなたの思いどおりには、いかなかったわね」
それだけをキッパリ言って、その場を立ち去るつもりでいました。
実行されるかどうかわからない、絵里だけの空想です。
「一人暮らしだったらしいわ。ひと月前にお父さんを亡くしたばかりで……。本人は小さなときから発作があったらしいんだけど。週に一度きていた、うちの福祉課の担当が発見したからよかったものの」
次の日の夕方、和子も、昨日の出来事は気になっていたらしく、仕事先から仕入れてきた情報を話してくれました。
島さんは無事でした。
和子によれば、薬を一回ぶんまちがえて多く飲んだようで、布団に入ったまま意識が朦朧となっていたのでした。枕もとに飲みかけのコーヒーが置いてあったそうです。
「施設の入所になるでしょうね。本人は入りたくないらしいけど。このままじゃ、だれも面倒を見る人もいないし、しかたないわ」
「施設って、ホープヒル?」
「えりちゃん、よく知ってるわね」
和子が感心したように言います。
それから、またひと月が過ぎた日のことです。
絵里は、和子たちとデパートの食品売り場にきていました。祐一は母親といっしょにキャスターのついたワゴンを動かしています。絵里は少しおくれて、ついていきました。
ふと横の通路を見ると、十人近く、ぞろぞろ買い物をしている列がありました。
制服姿の職員が二人、前と後ろをはさんでいます。
絵里は、ドキドキしながら目をやりました。
見おぼえのある皮ジャンと帽子が、人と人のあいだから見え隠れしています。「あっ、おじさん」
絵里は、見つけるが早いか数歩近づき、声をかけました。
島さんは、服装は同じでも、サンダルは運動ぐつにかわっていました。背中が心なしかまがり、体がひとまわり小さくなった気がします。
「えじちゃん」
最初に発した声は舌がまめらず、聞きとりにくいものでした。両目もトロンとしています。
「わたしのことおぼえてるのね?」
絵里もマスクのまま話しました。島さんは力なげにうなづきます。
職員が近づいてきました。島さんの肩口をだき、親切そうに、ひと言ふた言、話しかけながら列のほうへみちびきます。島さんは職員にしたがいながら、絵里の方を見ていました。絵里も顔を向けましたが、あっちへいってしまいました。
和子が、品物をレジにとおしているときです。
ホープヒルの職員があわてた様子で、店長と話しています。
「すいません。すぐに探しますから。放送はしなくてけっこうです。かえって本人が混乱しますから」
あわてぶりから、だれかがいなくなったことがわかりました。残りの職員に連れられた人たちが、横で待っています。絵里はそこをつぶさに見ました。
帽子と皮ジャンがありません。
「ちょっとトイレにいってくる」
とっさにうそをつき、絵里は店の奥へ入っていきました。もしかすると、と思える場所があります。それは、レジとはまるっきり反対側です。
近づくとベルの音がしました。
何度も聞こえてくるその音は、デパートには不似合いな感じです。まちがいない。その気配におぼえがありました。ペダルがこがれ、タイヤとチェーンがカタカタ回っています。
「おじさん」
絵里が声をかけると、島さんは自転車に乗ったまま顔を上げました。スタンドを立てた状態で、売り場の人が、用心のためたおれないようハンドルを押さえてくれています。島さんは、不満そうに口をつぼめていますが、目には光がやどり、まっすぐに絵里を見つめています。タイヤのリムと数十本のスポークから、足で力がこめられるたびに風が起きます。カラカラと気持ちよさそうに、島さんは、宙を駆けているようです。
『あっ、白ねこだ』
絵里には、島さんと自転車が、ねこと重なっています。ようやく探していたものが見つかったような気分です。
「島さん、だめじゃないですか。こんなところで」
怒気をふくんだ声が、流れていた空気を絶ちました。
ホープヒルの職員が歩みより、店員にすまなそうに頭をさげています。島さんを自転車から下ろすと、二の腕をギュッとつかみました。島さんは、抵抗しません。足を交互にゆっくりペダルからはずし、サドルからお尻を上げます。その動作が、いたずらを見つかった子どものようです。
白ねこはいつのまにか、いなくなっていました。
『おじさん、ぜったいにまた、ハンバーガーいっしょに買いにいこうね』
職員に連れられていく後ろ姿を見送りながら、絵里は、心の中でつぶやきました。
夏休みになりました。
蝉の声が、耳の中をゆする季節がやってきました。
絵里と祐一は、晃といっしょにキャンプに来ていました。
月に一度の晃からの提案です。
絵里は、最初、行くかどうか迷いましたが、祐一がどうしてもテントで寝てみたいというので、つきそいのつもりで出かけました。
キャンプ場には、自然の川に手をほどこした長い急流の滑り台があって、思うぞんぶん遊べます。
準備した材料で、バーベキューをしました。
半円の小型のドラム缶に炭火をおこし、その上に鉄のあみをのせて焼きます。ときどき肉からあぶらが落ち、炎に勢いがつきます。祐一は、ひさしぶりの父親とのひとときに上きげんでした。絵里は、そんな祐一を横目に、晃といられることをうれしくも、どこか面倒くさく思いました。
そろそろ焼けたという晃の言葉に、絵里は、こげめのついたフランクフルトを頬ばりました。薄い皮に前歯があたると、はじけるようにわれ、口の中に汁が飛びちります。晃は手ぎわよくわりばしを使い、肉をうらがえしたり、ナスやキャベツをのせたりします。
日がしずみきり周囲がすっかり暗くなると、たき木を集め、キャンプファイアーをしました。祐一はさかんに土手の方へのぼって木ぎれをひろい、炎の中へなげこみます。
そんな祐一を見ていた絵里は、ふと立ちあがり、テントの中に入っていきました。絵里の手に、小さな毛糸の織物がにぎられています。
そっと晃の前にさし出しました。
「パパが送ってくれた織り機であんだの」
花瓶を置くには、ちょうどいい大きさのコースターです。
「わあ、すごいな。もらっていいのかな」
いかにもうれしそうです。
「だめよ。ママにあげるんだから。ただ見せにきただけ」
きっぱりとした声は、晃の耳をかすめ、闇をぬけ、遠くまでとどきます。晃は、わざと両手をひろげ、残念そうに首をふりました。
炎は、けっして大きく燃えたっているわけではありません。マキの表面をなめるように細かにひろがっています。
乾いた部分がまんべんなく燃え、一皮下が、赤く色づきはじめ、燃えうつったところは、チラチラと点滅します。やがて、ガラリとくずれる音を合図に、大きな炎が、芯まで燃えつきさせる勢いで一気にひろがります。
たき木の表面に浮かびあがった暗い部分と赤味をおびたコントラストは、呼吸する生きもののようです。
晃がなにかを言いかけようとしたときでした。
「人も、こんなふうに燃えるのかなあ」
「え?」
意外なつぶやきに、一瞬、言葉をのみこみました。
炎を見つめていた絵里の頬に熱気がつたわり、赤く照らされています。晃は、横顔を見ながら、少しだけ眉をひそめ、怪訝な顔をしました。そして、もう一本マキをくべました。
炎のゆらめきは、絵里には一輪車のゆれに見えています。ペダルと腕でバランスをたもち、一本の軌道をたどっています。
「あっ」
絵里が声を上げました。
白い毛をはやした生きものが背をかがめ、すばやい動作で炎を横ぎりました。
やっぱり生きてたんだ。
火の影のように一瞬あらわれ、そして消えたものが、白いねこであることを疑いません。
暗闇に光を放つ炎の中を、彼女の一輪車はそれでもたおれずに、だれにも知れず、はしりつづけています。
絵里は、白いねこといっしょに、車輪をまわしつづけました。(了)