「共」に「生」きる。 in 阿蘇

8/19日に合志市のヴィーブルで、映画「新・あつい壁」を見てきました。

もうご覧になっている方も多いかと思いますが、全国で、そして県内各地で上映されている映画「新・あつい壁」(「藤本事件」をもとにつくられた)を合志市で見てきました。
阿蘇でも上映されたのですが、ちょうど仕事の都合でいけず、台風で延期になった上映会になんとか間に合うことができました。
中山監督の地元ということもあり、監督もみえられ、舞台挨拶をされました。
印象に残っているのは、40年前『あつい壁』(「黒髪校事件」をもとにつくられた)を撮ったが、今も差別は変わらずにある、という言葉でした。
そして、幼いころを振り返っても、地元にいて聞こえてきた日常の中に、ささやかれる声の中にこそ、「差別」はあったということでした。
私個人としては、警察権力による冤罪の恐ろしさもさることながら、最後に近い場面で、教誨師の前に、かつて書記官時代、被告人の証拠物件を長ばしでもったことを悔いる、夏八木勲演じる男性が出てきましたが、「許してほしい」というこの言葉に、別の意味での強い憤りをもちました。
この人物は、監督が意識して登場させたのでしょうか。
一見、反省に満ちた、謙虚な姿ですが、むしろもっとも根底的な人間の無意識に巣くうエゴを表出しているように思えました。
もしほんとうに過去の行為を悔いるのなら、この人のとるべき行動は、もっと別のところにあるように思います。
けっきょくは、当時、明らかに疑わしい証言をもとに「差別」したのと同じく、再び、時代が変わり、別の形で自己救済をやっているだけです。
もちろん、映画は一つの作品ですので、取り方はそれぞれに自由だと思いますが、とにかく素晴らしい内容のものでした。


藤本事件
藤本事件は、容疑者がハンセン病患者であったために捜査、公判、上告及び死刑執行の過程で患者に対する偏見と差別が影響し、公正さの欠如した裁判という疑いが暗い影をおとし、わが国裁判史上に問題を残す事件である。
昭和26年8月1日、熊本県菊池郡水源村、農業・藤本算(当時50歳)宅へ竹にダイナマイトをくくりつけたものが投げ込まれ、算と二男公洋(当時5歳)に、それぞれ全治10日間、一週間の負傷を負わす事件が発生した。この事件の容疑者として同村の藤本松夫(当時2
9歳)が逮捕され、昭和27年6月熊本地裁の菊池恵楓園出張裁判で懲役10年の判決を受けた。裁判では、被害者の算が同村役場に勤務中、熊本県衛生課のハンセン病調査に際し、松夫を患者として報告、そのため松夫は突然菊池恵楓園への入所通告を受け、平和な生活を脅やかされたのは、算の密告が一切の原因と恨み、凶行に及んだとされた。
これに対し、松夫は、無実を主張、福岡高裁に控訴したが、控訴は棄却された。有罪の物的証拠として爆破に使った導火線やひもと同じ者が家宅捜索で発見されたこととなっていたが、松夫や家族の話によれば、家宅捜索の際には何もなかったのに、あとで警察に呼び出された際、自宅からでた証拠物件だとして見せられて驚いたといっており、はじめからあいまいな点が多い事件であった。
この後、松夫は菊池恵楓園内の拘置所に収容されたが、昭和27年6月15日、拘置所を脱走し、指名手配された。ところが松夫が行方不明中であった同年7月7日朝、水源村の山林で算が上半身に20数箇所の切刺傷を負い、惨殺されているのを小学生が発見した。その数日後、松夫は付近の山畑で逮捕され、昭和28年8月29日熊本地裁の出張裁判で死刑の判決を受け、同年12月1日福岡高裁に控訴、5回の出張裁判の後、昭和29年12月13日控訴が棄却され、原審どおり死刑を宣告された。
この裁判の経過と判決に対して、松夫と同じ病気に悩み、苦しめられてきた全国の療友は大きな疑問を抱き、全国ハンセン病患者協議会(全患協)は公正な裁判を要求して松夫の救援に立ち上がった。全患協は貧しいなかから資金を出しあい救援と裁判の費用を集
め、第二審判決を不服として、昭和30年3月12日、自由法曹団の弁護士らによって最高裁判所に上告したが、2回の口頭弁論の後、昭和32年8月13日上告は棄却された。弁護
団は、直ちに判決訂正申し立てを行ったが、この申し立ても却下されたため、再審請求を第一審の熊本地裁に提出した。一方、漸く事件の重大性を知った社会各層の人々により、昭和33年には「藤本松夫を救う会」が発足し、全患協とともに松夫の救援を行うようになった。
昭和37年には、この会による現地調査が始まり、運動が次第に盛り上がっていく中、再度再審請求の手続きがとられたが、昭和37年9月14日、突如として松夫は処刑された。
この事件は、有罪、無罪両面共、裏付ける積極的な立証が極めて困難な事件であったが、被告は逮捕直後の自白を除いては終始一貫、犯行を否認、無実を主張していた。また、主要な証拠とされた松夫の叔父、叔母の証言、凶器とされた短刀の鑑定、凶器につぐ重要証拠とされた被害者の血痕が着いたとされた松夫のタオルとズボン、いずれについて
も証拠能力の疑わしいものであり、納得できない点が多くある。
日本においては、人命尊重の観点から、第一審で死刑の判決を受けた被告の再審請求を受理するのがほとんど通例となっているのに、松夫の場合は却下されている。また、被告が再度再審請求の手続きをとっている段階で突如死刑が執行されたことも異例であった。
こうしてこの事件は、多くの問題を残したまま、歴史の闇に埋もれていった。
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黒髪校事件
竜田寮は、菊池恵楓園の入所者の扶養児童を養育する同園附設の児童福祉施設(熊本市所在)であり、昭和28年度まで同園の児童は一般の小学校(黒髪小学校)への通学が認められていなかったが、宮崎園長(当時の菊池恵楓園長)の働きかけもあって、昭和29年4月から入学が認められるようになった。
ところが、入学式当日、PTA会長ら一部保護者が、竜田寮の新一年生4人の通学に反対して、小学校の校門に立ちふさがり、「らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬよう、しばらくがっこうをやすみましょう」等と書かれたポスターを貼るなどして、竜田寮児童の登校
を阻止する行動をとった。
この問題は、昭和30年4月、熊本商科大学長が里親となって児童を引き取り、そこから通学することで一応の決着をみたが、ハンセン病に対する偏見を如実に表す事件であった。

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