「共」に「生」きる。 in 阿蘇

映画『浮雲』(1955年作・成瀬三喜雄監督)を見て。

ここ最近、本も映画もそれなりに読んだり見たりしてきたのですが、なかなか感想を書く気にならず、ようやくこの作品については記しておこうと思った次第です。内容のあれこれについては今さら改めて紹介するまでもなく、いわゆる日本映画の名作となっていますし、どこからでも拾い集めることができるでしょうから、ここでは触れません。

ただ、私は、なるほど優れた作品というものは、映画に限らずどんなジャンルで、どんなテーマを扱っていようが、熟成かつ洗練されればされるほど、その土地や地域、国家、そして民族の優れた文化論であり、その時代の問題性を鋭く突きさす刃を隠し持っているな(作リ手の意図を超え、必然的に内包することも含む)と感嘆した次第です。

戦時中、仏印(現在のベトナム)で知り合った富岡とゆき子の戦後、引き上げてきてからの痴話(不倫)物語といってしまえばそれまでなのですが、林芙美子の原作をもとに水木洋子という当時としては抜群の「ジェンダーとしての性」の課題と問題を見据えていた二人が加わっているだけに、その台詞(とくに男女の)が、ときになじり合い、またあるときは情に訴え慰めあったとしても、根底においては、もたれ合い、よりかかってはいないのです。

その意味で、ちよっと作り物めいた感(監督の作為性が若干見えすぎ)もあるにはあるのですが、やはり「作品」というのは、これでいいのだ、そう首肯させてしまう説得力がこの映画には漲っています。森雅之や高峰秀子の熱演もさることながら、脇役もすばらしく、またきめ細かな風景やカメラ運びも常道といえばその通りでありつつ(こうくれば、こう動くよな、といった感じ)、しかし実に「正確(ただし、ここで言うのは人間の勘や培った技量をもとにしたもの)」なのです。

私は、この「正確さ」は今、ずいぶん映画の世界というか、いろんな場所から消えてしまったもののように思えます。小津安二郎の『東京物語』も同じくBSであっていましたが、最初見たのはもう四半世紀近く前になると思いますが、その的確な配置、俳優の目配り、動き、情景の挿入などなど、無駄のなさにショックを受けたことを今でも覚えています。

文学にかぶれていた二十代前半の当時の私は、その映画を飛びぬけて「新しく」かつ「スタイリッシュ」、なおかつきっちりと古典を踏まえているように思え、なあんだ、小津はこの一作で、日本の山々と堆積された自然主義の文学作品に比肩するくらいのことをやっちゃってるじゃないかと、驚嘆したのです。

ただ私の悪いところは、そうやって畏怖すべき作品や作者と出会うと、その監督や作者の他の作品には最初から尻込みしてしまい、敬遠してしまうというところがあるのです。

『浮雲』も、私にとりそんな作品になってしまったようです。(苦笑)

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