「共」に「生」きる。 in 阿蘇

長崎市在住で『九州文学』編集委員であり作家である江口宣さんから感想をいただきました。

今年の梅雨は、気性が荒いようですが、これも異常気象のせいでしょうか。だとすると、原因は地球温暖化ということになり気性が荒いのはガイアの神の怒りの現われかもしれませんね。
その後いかがお過ごしでしょうか。小生はやや体調を崩しており、仕事を休みがちになっております。
昨日、貴君の小説集「トライトーン」を読ませていただきました。たいへん面白くて、昨日の午後、いっきに読んでしまいました。小生も長く小説を書いたり読んだりしてきましたので、どうしても他人の作品にかぎっては、欠点が見えてしまうのですが、「トライトーン」にも、わずかですが、瑕疵と見えるものがありました。はじめに、そのことを申し上げておいたほうが良いと思い、書いておきます。それは、ときおり視点に不用意なぶれがあること、場面の転換が判りづらいところがあること、もうひとつは情景あるいは光景が浮かばないことがあること、の三点、それだけです。
ですが、そんなものは吹きとんでしまうほどの、よい小説でした。作品にみなぎるものは、登場人物と作者との、微妙な間合いのようなもの、あえて言うなら「愛」としか表現できないようなものに満たされていることでした。作品全体を染める、「宮本的愛の色調」ですね。貴君が描こうとしている人物は同時に、作品の中で「おれを見てくれ」と、叫んでいるようではないですか。生きることへの、ひたむきさ、その無心な思考と行為に、小生のように生きることに迷いつづけてきた、不甲斐ない男は、たわいなく感動してしまうのです。まったく良い小説を読みました。表現する者が、基本として胸に持たねばならないものを、貴君はたしかに抱いておられる。理屈抜きの愛だと、小生は、理解いたします。ひょっとすると、自分がそうであったかもしれない、さまざまな障害を抱えた人々への関心と愛、言い方を変えれば、なんだか申し訳ないような気持ち。また、自分の生き方に対して、その規範、あるいは物差しにたいして、常に懐疑的であることを迫るかれらの姿は、人間とは何かとか、どこへ行くのかとか、そうした根源的な問いを発して止まないのです。
本の扉の裏に書いていただいた献辞に「境界なき世界へ」とありましたが、貴君は覚えていらっしゃいますか。小生は、まずはじめに、この言葉に深く頷いております。なぜかと言えば、このところずっと考えていたことのひとつが、人間は道徳的な面ではあまり進化しないものなのではないかという、単純な疑問なのです。倫理はDNAにとって不要なのでしょうか。科学は、つねに利益や殺人のために、あるいはその効率化のために、巧みに利用されてきました。人間が人間を殺すことは、場合によっては許されるというのが、世界のコンセンサスです。その目的のために、核を使おうが、細菌をつかおうが、構わないのです。歴史にのこる、無数の残虐な大量虐殺は、すこしも後世の人間の戒めにはならずに、現在もさらに大量虐殺の準備が進められています。
なぜなのか、科学は進化するけれど、倫理は進化しない。この根本の部分に、人間の個別化があるのではと、思い始めたところなのです。肉体に閉じ込められた魂と、言ってしまえば神秘主義者のようですが、どんな権力者も孤独なのです。皮膚一枚の外は、警戒すべき外界なのです。他者と自身との境界に拘る者こそ、倫理を蔑ろにしてでも、つまり他者を殺戮してでも、自身を守ろう、あるいは勝者としてさらに自身の安全を図ろうとするのではないでしょうか。隣人を愛せよと、言ったイエスの言葉の意味を、小生はそんなふうに捉えるようになりました。他者との、無意味な境界を作るな、と。
さてさて、無意味な話をしてしまったかもしれません。つい、貴君の小説の感動の波に乗せられてしまい、ぶしつけにも砂浜に乗りあげてしまったようです。「境界なき世界へ」、でもどうやって・・・。それをともに考えていけたらいいですね。
                             江口宣
宮本誠一 さま
二〇〇七年七月四日

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