「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『真昼の暗黒』アーサー・ケストラー(岩波文庫)を読んで。

 人は自らの発する“言葉”の力によって動き、思考し、あるいは葛藤や衝突、または関係を結んでいる、かに思えますが果たしてそうなのか。それはすべてそういうふうに感じたり、思いこんでいるだけなのではないのか。 

人の集合体としての「国家」を動かす機能として、さしあたり「政治」を想定しますが、それさえも“言葉”によって思想、方針が語られます。選出された人たちもその“言葉”によって組織としての形をなしつつ、権力を行使していきます。しかし、よくよく考えるにその力動の根本、すなわち“言葉”と“行動”とのつながりが真に何の矛盾もなく連関しうるものとして、つまり単純な「シフト」として考えていいのか……。私たちはあまりに、そのことをアプリオリな前提として、「肯定」という二文字から出発してはいないか。 

この作品は、スターリン治下の旧ソ連で1936年に“反革命分子”に対し公開で行われた、いわゆる「モスクワ裁判」に題材をとった小説です。そして、ページをめくるごとに私の頭に巣くいながら離れなくなった疑問がこれでした。 

自分自身の寡少な読書体験でこれまで読んできたこれに類する、ある意味、「政治」に材をとった作品、たとえば島木健作の『癩』をはじめとする戦中の転向小説、高橋和巳の『憂鬱なる党派』に代表される戦後からの民主的党利党派の結成とその破綻、また比較的新しいところでは桐山襲の『都市叙景断章』や立松和平の『光る雨』に書かれた連合赤軍事件に象徴される新左翼的思想の崩壊等、いつも読みながら感じてきたある疑問、すなわち、「革命」なるものが日本人には可能、というかそもそも共通項としての理解モードをもっているのか、もっと言えば、当時席巻していた「マルクス」主義でもいいのですが、そもそもその文脈を読み解くとき、そこから派生する行動に何かパターンとしての「齟齬」というか、「錯覚」が誕生する宿瘂は存在しないのか。ということが気になっていたのです。 

で、これはある意味、最近自分なりにおさめている結論のようなものですが、改めてこの『真昼の暗黒』を読み、作中で繰り返し出てくる文言、「目的は手段を正当化する」という原則が示すように、思考や判断の源を日常にリンクさせ、「社会集団」が「歴史的変動」を繰り返す中で派生する「階級」に注目したマルクス的な思想をはじめとする幾たもの輸入思想が、やはり東洋であり、独特の「島国」という環境にあった私たちには馴染まないものであること、そして明らかに違う「情緒」のようなものをもってこれまで長い歴史を生きぬいてきた、そう思っているのです。

そして少なからず、当時の西洋人の中にも、このことに気づいていた人はいたわけですし、ケストラーもその一人と言えるでしょう。

「道のない目標を示してはいけない。この世では目的と手段が複雑に絡まりあっているので、目的が変われば手段も変わるのである。それで異なった道はまた別の目的を見せてくれる」

ラッサールのこの言葉をケストラーは、『目的さえ正しければそれでいいのだ』という合理的かつ短絡な思考にアンチテーゼとして打ち出し、すでに八十年前近くなろうとする当時、ソ連体制の暗部を鋭くとらえ、ナチス・ドイツとともに全体主義国家の「同一性」を見抜きながら崩壊を予告していた点において、先見性があったといわざるをえません。

加えて、「思想」と「行動」の曖昧さ、人間がそもそも自らの発する“言葉”に対して「齟齬」をもって生きている存在であること、その自覚の重要さを、この作品は主人公「ルバショフ」を通じて示してくれているようにも思った次第です。

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