缶詰屋
あかい夕日に照りはえた丘のひとつまた向こうの尾根に、牛たちが草をはむ姿が切り絵のように数頭列をつくっている。牛たちが、どんな顔をして草を食んでいるのかはわからない。ただその影は、みごとな輪郭をたもち、ひとつひとつ骨格まで浮き彫りにしているようだ。それがなぜ、今佐伯の目のまえに提示され、ひとつの景色として見えてきたのか。
かれは多少、今日一日の会社づとめの疲れを感じながらも、車を道のわきにとめ、土手をのぼりはじめた。牧草地であるため、森林組合の立てた看板と、針金の柵が目のまえにあらわれた。かれは用心ぶかく隙間から身をかがめてしのびこんだ。
永遠につづきそうだった記録的な猛暑の夏もおわり、あれほど肌をこげつかせるように落ちていた陽ざしもくるべきときがきたかのようにおとなしくなりかけ、やがて秋アカネが腹部にあざやかな縞模様をもつ赤トンボにすっかり場所をゆずってしまおうとしている最中でのことだ。
かれは、夕暮れになるすこし前、たまたま盛りかえしたようにやってきたその日の猛暑の反動で、心地よい風にさそわれるように、いつもの国道をとおって会社からアパートヘかえるつもりが、つい日ごろとおらぬ山間の道をえらんでしまったのだ。
二度、三度そのほそい道路をとおったことはあった。だが、そのときの気分ははじめてだった。
仕事がめずらしくはやめにひと段落し、帰路についた。その日まわった相手は八件だった。新車の注文から事故処理の書類づくりととどけ、保険会社との折衝もあった。きのうきょうこそかわった仕事はないが、保険きりかえどきに、別会社との二重契約を相談され自腹をきることさえあり、そんなとき佐伯は多少の出費はおしまぬことで有名だった。新車一台でかえってきてくれればやすいものだ、佐伯はそうかんがえる一人だ。
丘をのぼりながら、今、彼の目の前にこまごました現実がおもいだされ、つよく実感される。
かれはちかごろ、こんなことをおもっていた。
自分の中に、周囲に理解されたいという自分と、まったく理解されたくないという、つよく反する自分がうず巻き、それがまた自分というべつの、自分でない自分をつくっている。しかも矛盾した気持ちは陰ながら自分をささえ、靄のかかった意識のむこうにありどころもわからぬまま存在している。
そんなかれが、最近、目がいくのがアパートの近所の一建屋だ。
ほそい自転車と歩行者専用にある道ぞいに、ほんとうにポツンとある一建屋だった。
それはわすれられた廃屋をおもわせた。以前そこに住んでいた人間は、借金苦で夜逃げしたというもっぱらの噂だったが、佐伯はくわしくは知らなかった。ただかれは、その家にある奇妙な『缶詰屋』という、どこからひろってきたものかわからぬ立板にペンキでかんたんに書いた看板が気になっていた。