あれは、二週間まえのことだ。かれが、ふたりの子どもの手をとり、それをながめながらわずかばかり立ちどまっていると、いままでひとの気配などないとおもっていた開き戸から、いきなり佐伯より三つか四つ年うえらしい男が姿を見せた。細面で、見るからに華奢な体つきだ。だが、頬骨がつきだしてはいるものの、神経質さはなく、どこか無邪気ささえ感じさせる瞳をしていた。
「よかったら、はいって見てください」
男は、佐伯の顔を見るなりそう言ってすすめた。かれもなぜか躊躇せず、ふたりの子どもを引き連れ、敷居をまたいだ。かまちなどはなく、床ははがされ、セメントが露出している。どうやらそこが仕事場兼店頭らしい。そのうち縁側をうちはらい、でいりできるようにしたいと男は言った。いまは、その店づくりのとちゅうの段階らしい。
店のメインである製缶機が、すみにどんとおいてあった。
佐伯は、店はともかく、さして人通りも多くない場所で商売をしようとしていることをおもしろく思った。
かれ自身、最近、今つとめている車の営業の仕事をやめることを、妻にしばしば口にだし何度か話し合っていた。
そもそも車のメーカーは、営業の力など信じてもいなかったし、尊重してもいなかった。売れれば、車の性能のよさにされ、売れなければ営業の怠慢にされた。それはかれも承知のことで、いまさらどうでもいいことだ。かれは、むしろ、自分のメーカーから新型の車種がでるたびにこんどはいけると確信をもつきわめてごくありふれた営業マンのひとりだ。
たまのやすみ、家で子どもといっしょにテレビを見ていると、自分のメーカーの新型がコマーシャルでながれる。スマートなデザインとパワフルかつ繊細なエンジン、それに乗っているタレントの生き生きした笑顔と表情、それらはみな佐伯をいっしゅんだが、ある種の幻想にひきこませた。
車を売りに出かけ、謙虚に、だがほこらしげな表情でパンフレットをひろげる自分の顔。そこにはむしろ佐伯という存在は消え、ただ性能のいい車と景気の上下に左右し気まぐれに財布の紐をかたくしたりゆるめたりする客の顔があるだけだ。そのことはわかっていて、なおかつ佐伯はコマーシャルやパンフレットを手に『これはいける、こんどこそは』と実感するのだ。いや、そうおもわないとひとに車などすすめることはできないのかもしれない。ある種のにがい思いと期待のようなものを同時に佐伯は、と言おうか営業をするものはメーカーに対してもっているのだ。