缶詰屋では、いよいよ店舗も完成し、細かな荷物の整理を男がひとりでやっていた。
「引っ越しはだれも手伝ってはくれませんから」
缶詰屋は、そう言って、黙々と手をうごかしていた。しばらくしてから、扉が開き、手にいっぱいの荷物のはいった紙袋を下げた女がはいってきた。髪が長く、目鼻立ちもすっきりし、動作はかろやかだった。ふりむきざま軽く会釈した佐伯と目があい、男が「ああ、ぼくの連れ合いですよ」と紹介した。
女は、男より少し年下に見えた。彼女は、両手がふさがった状態のまま言葉をしゃべらず、表情と目でなにやら缶詰屋に合図した。紙袋の中にはいろいろ生活の必需品が見えかくれしていた。
「店もできたし、きのうから、この奥の部屋にふたりで住んでるんですよ」
佐伯は、少しあっけにとられていた。そして今、目のまえにいる男と女のことが気になった。自分以外への関心……。疲れきっている今のかれが他人のことに頓着するのはめずらしいことだ。だが、缶詰屋のふたりは、どこかひとをひきよせるに充分な匂いがした。とおい旅でもしてきたようなそんな感じだ。だがそれもただの佐伯の思い過ごしか、幻想ともとれた。佐伯は自分の感情のありかさえはっきりつかむことができない人間にすぎない。
女は、手でカップをもち飲むかっこうをした。
「ああ、ありがとう。コーヒーだね」
缶詰屋が答えた。女はニコリとしてうなずくと奥の部屋に消えた。
「彼女は、ぼくのよく行っていた理髪店で働いているんですよ。きょうは、午後からむりして休暇をとってきたんです」
男は、何の気なしに佐伯に説明した。男の顔は日の当たりがよくなった部屋で見ると、思いのほか若い。もしかすると佐伯と同じくらいか、むしろ彼より年下なのかも知れなかった。
佐伯は、退職願いを書き、それをずっと鞄の中にしまっている。最初は、簡単に出せると思っていた。しかし、家族もちの今の自分の状況では手かせ足枷があるのわかりきっているし、出せばさらにそこに拍車をかけ上積みされていくことも事実だ。円満退社する場合、一応の期日が設けてある。感情的にやめるわけではないので、最後の仕事まで、回りの者へすきを見せたくなかった。すきを見せたらおそらくそこにやめる根拠を他人は見つけたがる。それがいやだった。佐伯と比較的折り合いのうまくいっていない上司やその部下たちはなおさらのことだ。少しのマイナス面も残して去りたくはない。そのことを、感情のバランスとして保つためにも退職願いを期日前に早々と出すことは、かれにとって何のためにもならないことだ。期日がもうけられているのだったら、それを生かせばいいし、そうするしかない。そう佐伯は思った。
あせることはない。あせる、そのことがこれまでの疲れをつくりだしている。すべては思い過ごしだとかれは思った。不安も恐怖も、わけもなく肌寒く感じる思いも、すべて根拠のない実態なのだ。それらに惑わされるほど愚かなことはない。そうかれは自分に言い訊かせていた。
缶詰屋へ行ったその日、退職願いの期限が二日後にせまっていた。
「ひとは、脆いものですよ」
缶詰屋は、前に来たときぽつりとかれにそう言った。
その脆さのまっただ中に、佐伯は自分が、今、いるようだ。
「だれも、ひとのために泣く人間なんていませんね」
三人でコーヒーを飲みながら、缶詰屋がぽつんと言った。
「私が彼女といっしょになるとき、私の母親は難病にかかっていましてね。私自身、高校で数学を教えていたんですが、それも辞めて、そのことを病院に伝えにいったんです。そしたら、母は病院のベッドで人目も気にせずおいおい泣きましたよ」
缶詰屋は、佐伯と同じように結婚し、幼い子どももふたりいたと言う。
「妻には、彼女を愛していることをずいぶん前に話していました。やっぱりいっしょに住んでいればなんとなくわかってくるものですね。私も隠しごとをするのはいやだったんで、思いきって告白したんです。そのときは妻と別れ、彼女ととにかく住みたい一心でした。でも、妻の涙を見ながら一度は彼女と別れようかとも思ったんです。揺れましたよ。ずいぶんとですね。ふたりの子どももいましたし。ひとに憎まれるのはいやなんですよ、私も。でも、けっきょくは彼女を思う気持ちにかわりはなかったですよ。いやそれどころかますます思いは深くなりましてね。彼女なしには、息が苦しくて、つまってくるんです。自分の存在が薄くなる感じで……。もうやっぱり生きれないってことがよくわかったんです」
缶詰屋はそれからコーヒーをゆっくりすすり、黙りこんでしまった。