松五郎
鶴屋南北(1755~1829)は劇の展開の面白さ、恐ろしさ、思いもつかない笑い、そして社会の底辺に生きる人々を描いた。
時は幕末も近く最後の江戸文化が花開く。文化文政期といわれる時代である。本格的な活躍は50歳となってすぐ、文化元年(1804)天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべいいこくばなし)の上演からであった。
それから亡くなるまでの25年間に百以上の作品を残している。今でもくり返し上演される作品が多い。
その代表は「東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん、1825)」である。
作者はお上をはばかって東海道四谷の宿場の怪談話という意味をこめているのである。
江戸時代の芝居は江戸を鎌倉に置き換え、鎌倉や太平記の時代にし、登場人物も仮の名にしている。しかし東海道五三次の宿場に四谷は存在しない。
四谷怪談の地は、江戸の四谷や深川なのだ。
物語は仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)の裏話のかたちを取っている。だから主君は塩冶判官(浅野)であり、いっぽうは高師直(吉良)である。塩冶の武士、民谷伊衛門は恋仲のお岩の父に、お家の御用金を盗み逃げたことを知られ、夫婦仲を裂かれる。塩冶の家は刃傷事件で断える。そこから残酷に相手を苦しませ、ふつうでは考えられない思いつき、笑い、社会底辺に生きる人々をまき込んでの恐ろしいストーリーがすすんでいく。
伊衛門はで主家を裏切る不忠の武士、お岩と恋しあったのも忘れ、隣りの金持娘の恋にこたえ、嫁に取る。産後のお岩には顔が変わってしまう毒薬を飲ませ、ついには死にいたらしめ、戸板に打ちつけ川に流してしまう。
ここからお岩の亡霊の出現だ。
この劇がすぐれているのは、まず江戸市中に生きる底辺の人々を生き生きとリアルに表わし、今日も新しさを失わないことだ。
それに伊衛門やお岩をおとしれた者たちへの恨みがつのり、ついには亡霊になっていくさまを、すさまじく細かく描いた作品はほかにはない。
また南北はお岩一人の恨みではなくまわりで死んでいったものたちの恨みも、伊衛門のような悪人にも、他にもつながるような恨みも描いた。
忠臣蔵が男のあだ討ちとすれば、四谷怪談はお岩、そして妹のお袖のあだ討ちの話でもある。封建社会の中で力のない女のあだ討ちは、亡霊として化けてでも出なければ、果たせないのではないか。
そのことは南北が考えたかどうかは別として、封建社会の道徳にまっすぐであればあるほど、人としての矛盾にうちあたる。お岩の亡霊の恐ろしい復讐劇は四七士の討ち入りをこえてしまっている。
芝居に込められた女の恨みの深さは、忠臣蔵の忠義やあだ討ちを笑っているのだ。
また仏壇やちょうちん、庵といった仏教に深く結びついた道具や場所を通してお岩の亡霊は出てくる。
ここでは仏具が亡霊の通り道になり、小悪人を仏壇に引きずり込んだりする。
すでに仏教が死者を成仏させる力を持たない。力のない仏教への批判さえみえる。
主役はお岩と伊左衛門だが、二人めぐる人たちや端役に至るまで人物像が描けている。
たとえばお岩が亡霊になっていくさまを見つめる宅悦は、観客と一緒に亡霊になっていくお岩を見つめ、こわがり、変化を手助けし、伊衛門と隣家の悪意を伝えなければならない重要な役である。
こうした役回りは他の脇役も与えている。
鶴屋南北は初演の小屋で、やぐらに生首の飾りをつけ、芝居のうわさ広げたという。
江戸文化の最後を、むごく、ふう変わり、高笑いで走りぬけた作者である。
第一話・四谷怪談に見る歌舞伎作者、鶴屋南・・・生首は本ものだったんでしょうか? 人生、長~下積みが大事ってことですね。
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