「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『ダスト・イマージュ』/その十

 新学期が始まり、それまで、前学期の終わりから尾を引くように飛び飛びながらも姿を現していた篠見が、二月半ばになってぱたりと来なくなって二週間たった。 社長は、その理由についてはっきりとした理由を生徒たちにも、また他の講師たちにも説明せず、またそれを求める者もいなかった。篠見のいなくなった穴はすぐに埋められるものではない。彼の噛み砕いたわかりやすい授業は、生徒たちからも定評があったし、その受け持っていたコマ数は並のものではなかったからだ。大田や佐伯といった授業には出なくとも、篠見と半ば話すためにやってきていた生徒たちも、初めのうちこそ篠見の引っ越したばかりのコーポへ遊びに行き連絡を取り合っている様子だったが、そのうちまた、事件が進展しそれも出来ないことになってしまった。
 篠見が行方をくらましてしまったのだ。家賃が一月分滞納されており、篠見の失踪の後、紙面上保証人になっていた社長がそれは支払い、その部屋を現在では社長が倉庫代わりに使っているということだった。篠見が、行方不明になったのには、もちろん彼自身の結婚問題が坐礁に乗り上げたことも大きな理由として上げられたであろうが、それ以上に生徒からの悩みごとの相談役としてカウンセリング的な役割を無制限に引き受け、自分からもそこに歯止めを打つこともせず浸り込み、生徒自身、それに当然適ったやり方で係わりを進め対峙していったことである循環が起こり、篠見の内側を一つ一つ個別な事情が息苦しく、生徒の声となり取り巻いていったということだった。それが次第に彼を追い詰めて居場所をなくさせていったことが事の真相のような気もする。その中には、いくつかの男女の生徒間の問題もあったようだが、各自の中に浮き上がってきた、そこはかとない意気地なものをそのまま篠見に投げ出す形をあの部屋で延々と繰り返していたことに端を発する今回の出来事は、篠見を慕っていた幾人かの生徒にとってはそれなりに不可解で納得しにくいものがあったに違いない。篠見が姿を見せなくなってから彼のコーポへ押し掛けたことが、結果的には、篠見をさらに外に追い出すに充分、早めることになってしまったのだ。 
 真ん中の部屋からも、それまでとられていた篠見を中心としたやりとりはすっかり消え、大田や佐伯といった授業には出ないながらも、その部屋に毎日のように顔を出し、何するでもなくやってきていた常連の生徒が座を寄せ合い集まりながら、篠見や自分たちを含めた予備校のこれからの事を憶測を飛び交わせながら噂し合う場面が多くなった。だが、それもけっして真剣にというわけではなく、ややもすると、ある身近なドラマの筋を自分たちなりに練り出し要所要所は気楽に楽しんでいるふうでもあった。
 「篠見先生のことだから、やあ、すまんすまんって平気な顔でかえってくるんじゃないのかな」
 大田が言うと、新年になってから珍しくそこにやって来ていた久本が、
 「やっぱり、先生いなくなったの本当だったんだな。佐伯、お前正直、先生の居所知らないのか」
 佐伯は、当然そんなことは知らないという惚けた顔をする。ぼくが、予備校にやって来たのは、そんなときだった。
 「亮一、福島さん予備校ぜんぜん来なくなったけど最近どうしてるんだ」
 里子が予備校を辞めたことも家庭教師のことも、全く知らない久本が訊ねると  「彼女、どうも最近体調悪いみたいなんだ」
 ぼくは、当たり障りのない返事をした。事実、三日前、里子から電話で、内臓とくに肝臓の具合が前と同じように思わしくなく、しばらく検査をかねて再入院するつもりでいることを聞かされていた。ベッドの空きがなかなかなく、それでもいつも見てもらっている係り付けの医者から、精密検査をするため念のため急いだほうがよいと注告を受け、ベッドが空き次第、二、三週間入院することが決まっているようだった。
 「そう言えば、昨日井芹さん、ここに来て変なこと言ってたな」
 それから佐伯が、どちらかと言うとぼくの方を主として見ながら話したことは、奇妙なことだった。
 京子が、自分の下宿の傍を歩いているとどうも、誰かにつけられている気がすると言うのだ。しかし、すぐに振り返って見てみてもそこにはだれもいなく、どうやらそれは、意図として京子を最後まで追い詰めてやろうとしているのではなく、彼女自身が、それに対し一体どういう反応を示すのかをじっくり見ているふうだというのだ。薄気味悪くて仕様がない。たぶん気のせいだろうが、最近、それが気になって眠れなくなってきていると。 
「井芹さんも変わったな。最初ここにきたときはおとなしそうにしてたのに」
 佐伯に吊られるように大田も
「大学生と付き合ってるみたいだぜ。どこで知り合ったのかしらないけど」
 京子の後を付けられてた話といい、里子の病院まで尾行され、そこを突き止められた話といい、似ていると言えば内容は、まったくの瓜二つのものだった。
 ぼくは、その両者ともが、今の時点では疑う根拠が何一つない空恐ろしい話のように思えるのだった。同じ神経を病んだもの同志が、同じような圧迫を感じながらも同時に似たような行為に出、相手をじりじりと苦しめる。それぞれが、そのことをあらためて異を立てれるほど見切っていないだけに、傍から観察していると実に自然な、異常行動というものとは明らかに一線を画した素朴な動きそのものにうつる気もする。だが、反対にややもすると、これほどの執着めいた陰湿なものはなく、一つ大きくズレ落ちた断層を傷のように深くその行為の奥深くに持っている、そんなふにも思えてくる。
 亮一は、そこに集まった他の生徒の顔をあらためて見回しながらそんなことを考え、一人思いに耽りながら、たわいのないことだと切り捨てられぬ引き摺る何かがそこにあることを感じ、忍び寄る緊張のようなものを禁じえなかった。

コメントはまだありません

TrackBack URL

Leave a comment