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〇小説の「構想」段階から記事にする根拠とは如何に?

〇小説の「構想」段階から記事にする根拠とは如何に?〜新聞のSNS化を憂う〜

熊日新聞を見るとき、まず私は第一面の<NEWS INDEX>欄をざっと見るのですが、9月29日にこのような見出しが載っていました。『水俣に通い小説を構想』、これを目にしたとき「へええ、どんな方がそんな地道なことをされているんだろう。仕事を持ちながらなんだろうか、それとも退職後の方だろうか。もしくは作家志望か。いずれにせよ貴重な時間をそちらへ向かわせておられるからには相当な問題意識があられる方なんだろうな」と思っておりました。そしてその紙面を開いたとき驚きというか、拍子抜けをしました。

 

『熊本市在住の作家・坂口恭平さん 水俣に通い小説を構想』

えっ? プロの、かつ著名なあの作家さん? えっ、いったいどういうこと。

 

記事にする重要な必然性があるのかもしれない。そこでじっくり興味をもって読んだのですが、8月下旬から通い、一人の漁師さん(認定患者の方らしい)とのやりとりで、その方の言葉は当然、重く響いてくるのですが、坂口さんに関してはこの見出しの通り小説を書くという思い、そして現地の方々の思いを自らの血肉としてしみこませたい熱情はもちろんあることはわかりますが、それ以上の記事としての必然性は感じられず、申し訳ありませんが〝構想〟という段階でこのことを記事にする具体的な理由が伝わってきませんでした。

と言うのも、そもそも論にもなるのですが、プロの作家さんが現場へ足を運んだり、当地の方々の声に必死に耳を傾けたり、ときには生活をともにするって、ごくごく当然のことじゃないのでしょうか?(ここでは坂口さんをレベルの高い作家さんとして、その基準で語らせていただきます)

作家に限らず、どんな職業にも言えることと思うのですが、たとえば学校の先生が児童生徒の生活や学習課題に取り組まんがため何度も家庭訪問をくりかえしたり、記者の方も、ときには一つの記事を仕上げるため何度も取材対象先へ通うこともあるでしょう。料理人の方が顧客により価値ある品を提供したい一心で限られた時間を費やし先達へ教えを請いに行ったり、食材を求め現地まで足を運ぶだけで満足せず、自ら生産者となって土を耕す、さらには昨今、契約社員やパートの方が次なる職を得るためスキルを身に着け、奔走されるなど枚挙にいとまがなく、けっして珍しい話ではありません。

つまり言いたいのは、その<道>をなりわいとする〝プロ〟が、自らの生産物や制作物の質を高め、完成へ導くために、思いつく限りのありとあらゆる努力をするのは当然のことであって(マルクスはこれを『命がけの飛躍』と名付けています)、もし記事にするのなら、それプラスのよほどの何かが明確でない限り、一個人事業主を、まだ完成でもない「構想」の段階から取り上げるのは、いたずらに単に持ち上げているだけではないかと取らえかねられないことになってしまうのではないか、それらを含意すれば安易な記事化は、あえて申し上げればむしろ「水俣」の方々に対しても失礼なことになるやもしれないのではないかと危惧した次第です。整理の意味でもう一度繰り返しますが、①記事対象者が〈プロ〉であるということ、②作品が完成でも、あるいはそれ間近かでもない、はっきり言えば頭の中での、または机上での『構想』の段階に過ぎないということ。別の意味で言えば“実体がない”ということにもなりはしないか。なぜならば小説とは吉本隆明の言をかりるまでもなく〈自己幻想〉を土台とするものであり、完成された作品を言語表現として読むまではその評価は無意味であろうから。

この2つをもとに公共性を土台とする記事性に立ち上げていくには不十分であり(例えば、これを坂口さん御自身が、SNSに投稿したというのであれば充分理解できるのです)、それらを〝記事〟として取り上げたことに対し、今回、坂口さんにモノ申したいわけでなく、あくまでもこの記事を書かれた記者さん、そして掲載を許可された上部の方に、その理由と根拠をお聞きしたいと思い、ここに記した次第なのです。(問い合わせの担当者さん、直接書かれた記者さんではありませんが社会部の方にはすでに電話で思いを告げ、返答はまだいただいてはいませんが、ご丁寧に聞いていただいたことは最後に付記させていただきます。心より感謝申し上げる次第です/夢屋代表 宮本誠一)〇小説の「構想」段階から記事にする根拠とは如何に?

熊日新聞を見るとき、まず私は第一面の<NEWS INDEX>欄をざっと見るのですが、9月29日にこのような見出しが載っていました。『水俣に通い小説を構想』、これを目にしたとき「へええ、どんな方がそんな地道なことをされているんだろう。仕事を持ちながらなんだろうか、それとも退職後の方だろうか。もしくは作家志望か。いずれにせよ貴重な時間をそちらへ向かわせておられるからには相当な問題意識があられる方なんだろうな」と思っておりました。そしてその紙面を開いたとき驚きというか、拍子抜けをしました。

『熊本市在住の作家・坂口恭平さん 水俣に通い小説を構想』

えっ? プロの、かつ著名なあの作家さん? えっ、いったいどういうこと。

記事にする重要な必然性があるのかもしれない。そこでじっくり興味をもって読んだのですが、8月下旬から通い、一人の漁師さん(認定患者の方らしい)とのやりとりで、その方の言葉は当然、重く響いてくるのですが、坂口さんに関してはこの見出しの通り小説を書くという思い、そして現地の方々の思いを自らの血肉としてしみこませたい熱情はもちろんあることはわかりますが、それ以上の記事としての必然性は感じられず、申し訳ありませんが〝構想〟という段階でこのこのことを記事にする具体的な理由が伝わってきませんでした。

そもそも論にもなるのですが、プロの作家さんが現場へ足を運んだり、当地の方々の声に必死に耳を傾けたり、ときには生活をともにするって、ごくごく当然のことじゃないのでしょうか?(ここでは坂口さんをレベルの高い作家さんとして、その基準で語らせていただきます)

作家に限らず、たとえば学校の先生が児童生徒の生活や学習課題に取り組まんがため何度も家庭訪問をくりかえしたり、記者の方も、ときには一つの記事を仕上げるため何度も取材対象先へ通うこともあるでしょう。料理人の方が顧客により価値ある品を提供したい一心で限られた時間を費やし先達へ教えを請いに行ったり、食材を求め現地まで足を運ぶだけで満足せず、自ら生産者となって土を耕すことも珍しくない話です。

つまり言いたいのは、その<道>をなりわいとする〝プロ〟が、自らの生産物や制作物の質を高め、完成へ導くために、思いつく限りのありとあらゆる努力をするのは当然のことであって(マルクスはこれを『命がけの飛躍』と名付けています)、もし記事にするのなら、それプラスのよほどの何かが明確でない限り、一個人事業主を、まだ完成でもない「構想」の段階から取り上げるのは、いたずらに単に持ち上げているだけではないかと取りかねられないことになってしまうのではないか、つまり安易な記事化は、あえて申し上げればむしろ「水俣」の方々に対しても失礼なことになるのではないかと危惧した次第です。整理の意味でもう一度繰り返しますが、①記事対象者が〈プロ〉であるということ、②作品が完成でも、あるいはそれ間近かでもない、はっきり言えば頭の中での、または机上での『構想』の段階に過ぎないということ(別の意味で言えば“実体がない”ということにもなりはしないか)。

この2つをもとに公共性を土台とする記事性に立ち上げていくには不十分であり、それらを〝記事〟として取り上げたことに対し、今回、坂口さんにモノ申したいわけでなく、あくまでもこの記事を書かれた記者さん、そして掲載を許可された上部の方に、その理由と根拠をお聞きしたいと思い、ここに記した次第なのです。(問い合わせの担当者さん、直接書かれた記者さんではありませんが社会部の方にはすでに電話で思いを告げ、返答はまだいただいてはいませんが、ご丁寧に聞いていただいたことは最後に付記させていただきます。心より感謝申し上げる次第です/夢屋代表 宮本誠一)

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