「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『ダスト・イマージュ』/その十一

それから一月ほどして予備校からの帰り、ぼくは久し振りに街に出掛けてみようかと思い、市電の駅へ向かった。自分の乗る車線のホームの反対側の交差点で風が強く吹き上がり、そこで少し立ち止まった。そのとき、これから行こうとする方角に一人の影が立っていて思わずその姿に見覚えがあり、ぼくは、すぐにまた歩を止め、くるりと向きを変えた。すばやくこちら側に建っているビルの下の一本の支柱の陰に身を隠した。血の流れが激しくなり血管を信じられぬ速度でその固まりは過ぎていった。その影は、ゆっくりと脚を絡め交差とともに躰をいくぶん前方に傾け確かに背中で何かを感じ取り待ち構えているようだった。
 里子だった。
 いつ病院から出てきたのだろう。ぼくは、おそらく向こうからは見えないであろうその場所で、風を避けてか、同じように身を寄せ合うようにして立っている次の市電の乗客たちに紛れ、それでも彼女のいる方角が気になり、ときおり糸でそちらに引かれるように視線を向けた。彼女は相変わらず手持ち無沙汰のふうで、やや神経過敏そうに時計を覗き込んでいる。おそらく今度来る電車に乗るつもりらしいことは確かだった。ぼくも、しばらくは平静に、彼女のいる方をできるだけ見ない姿勢で臨もうとしながら、斜めから断片的に過ぎては視界に入ってくる車の影と多少焦点を失った感が強い里子の動作が気にかかり、悪い予感にも裏打ちされ後ろ手を引かれる思いで見守ったのだ。
 そのとき、ぼくは、里子の家に夜中タクシーで行ったあの晩のことを思い出していた。 
「ときどき……」
 そのとき里子は亮一の顔を見ず、今ホームにいる彼女と似たような姿勢をとりながら、薬を飲んだ後しばらくしてから以前突っ伏したまま腕を肩から下ろし、生き物が踞み込み、息をつぐ恰好で言ったのだった。
 「……また考えこんでしまう、一人でいると。悪い方、悪い方へと考えが先回りしてしまうの……」
 里子が、そのとき着ていた黒のワンピースを、ぼくはそれまで目にしたことがなく、このときまたそれが鮮明に浮かび上がってきた。大きく開かれた首元の辺りから覗ける肉付きから判断しても、今思い返しても、彼女が少し太り始めていたことが容易に見て取れた。肝臓の疾患から来る浮腫みが露わになりだしているのは確かだった。
 「ねえ、こんな夢見たことない? このまま、自分の回りには誰もいなくなって、お父さん死んだときみたいに、また、たった一人になってしまうの。建物とか全部壊れてしまって、砂漠みたいなところに一人取り残されて、食べるものもなくて、歩く力もなくなって、どうすることもできなくなって、だけど目だけがちゃんと動いていて、死なずに回りを見ながら生きているの……」
 ほんの一瞬だった。
そのとき二人が沈黙の中にいたすぐその後、里子の目から生気がぱったりと消え、目の前の宙の一点を放心するように見つめ、やがて馳せ、また俯いた。
 「お父さん……、お父さん……」
 里子はか細い声で吐き出すように、何かに迫られ追いつかれた者のように無気力に咽喉を小さく震わせていた。声だけでなく躰までが小さく震動し大気に敏感に触れ弧を幾重かに描き揺れているようだった。そして、里子はつづけた。
 「亮一君、あなた、夕暮れは耐えれる? 夕暮れは、死を誘うのよ。夕暮れの、あの空気と色の褪せていく感じ……。わたしは、毎日毎日、もうどうにも耐え切れない。子どもが遊ぶ声なんかが裏からしてきて、遠くの方では、犬の泣き交わす声なんかがするの。甲高い声よ。溝を流れる下水の音。木の梢の揺らぐ気配。わたしは、もうどうにも耐えれない。何度死のうと思ったか知れない。でも、死ねなかった……。ねえ、柚木くん、あなた耐えれる? こういう感じって、耐えれる?」
 ぼくは変わらぬ姿勢のまま動かず、里子の変貌していく姿を、今この駅の前の僅かな吹き溜まりのような場所で思い出していた。
湿ったこの地特有の巻き上がる風にひたすら曝されながら立っている道路の向う側の相手を里子だと確かめ、ぼくは今、重ね合わせるように思い出し、やがて同じ車両に乗る自分たちのことも忘れたようにして、目の前の相手の動静を窺っていた。
                                      (了)

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