「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『目の見えない人は世界をどう見ているのか」 (伊藤亜紗著/光文社新書) を読んでみて

『目の見えない人は世界をどう見ているのか」
(伊藤亜紗著/光文社新書)

10年前に買っていて、ずっと遠ざけてた(この行為自体、極めてアンビバレントなのですが)一冊でしたが、今回一気に読みました。日頃から障害者のメンバーと親密な関係で活動をしていると、自分の体験や知見に偏ってはいけないと、あるときは無性に学習欲がわく半面、専門的かつ学術的な見方に強烈に反発をもち、そういった分析性こそ差別の根源なのではないかとつい遠ざけてしまう自分がいます。しかしこの著書は本質的にそれらとは違ってました。著者自身が『美学』を基本に据え、フランス語「ジュヌセクワ」から”いわくいいがたいもの“つまりは〈言葉にしにくいものを言葉で解明していく〉とし、当事者4名からの聞き取りをもとに丁寧に論を進めていきます。
《障害者とは、健常者が使っているものを使わず、健常者がつかっていないものを使っている人》との規定のもと、健常者が一方的につくりあげている障害者へのイメージを、利便性を基底に据えた「情報」という枠でなく、「意味」そのものから解体し、再構築していきます。私は吉野弘の『動詞「ぶつかる」』という詩を思い出しました。

動詞「ぶつかる」       吉野弘

ある朝
テレビの画面に
映し出された一人の娘さん
日本で最初の盲人電話交換手
その目
外界を吸収できず
光を 明るく反映していた
何年か前に失明したという その目は
司会者が 通勤ぶりを紹介した
「出勤第一日目だけ お母さんに付き添ってもらい
そのあとは
ずっと一人で通勤してらっしゃるそうです」

「お勤めを始められて 今日で一か月
すしずめ電車で片道小一時間……」
そして聞いた
「朝夕の通勤は大変でしょう」

彼女が答えた
「ええ 大変は大変ですけれど
あっちこっちに ぶつかりながら歩きますから、
なんとか……」
「ぶつかりながら……ですか?」と司会者
彼女は ほほえんだ
「ぶつかるものがあると
かえって安心なのです」

目の見える私は
ぶつからずに歩く
人や物を
避けるべき障害として

盲人の彼女は
ぶつかりながら歩く
ぶつかってくる人や物を
世界から差しのべられる荒っぽい好意として

路上のゴミ箱や
ボルトの突き出ているガードレールや
身体を乱暴にこすって過ぎるバッグや
坐りの悪い敷石や焦焦した車の警笛

それは むしろ
彼女を生き生きと緊張させるもの
したしい障害
存在の肌ざわり

ぶつかってくるものすべてに
自分を打ち当て
火打ち石のように爽やかに発火しながら
歩いてゆく彼女

人と物との間を
しめったマッチ棒みたいに
一度も発火せず
ただ 通り抜けてきた私

世界を避けることしか知らなかった私の
鼻先に
不意にあらわれて
したたかにぶつかってきた彼女

避けようもなく
もんどり打って尻もちついた私に
彼女は ささやいてくれたのだ
ぶつかりかた 世界の所有術を

動詞「ぶつかる」が
そこに いた
娘さんの姿をして
ほほえんで

彼女のまわりには
物たちが ひしめいていた
彼女の目配せ一つですぐにも唄い出しそうな
したしい聖歌隊のように

ここで吉野氏が試みようとされているのも「ぶつかる」という語の意味の解体と再構築です。
視覚障害者にとって道の小さな凹凸や垣根から伸びた枝一本さえ、ときに命を脅かすものとなります。歩道にはみだした自転車類や建物内のバリアフリー化は必要不可欠のものです。しかしそちらの視点はあくまで利便性を中心に見た、あえて誤解を恐れず言えば健常者の側から視覚障害者の生きる環境を対象化しとらえ補完しようとするときに浮上してくる問題であって、文字通り「ぶつかる」は痛みや恐怖を伴った排除すべき「ぶつかり=衝突」そのものです。しかし吉野氏は一人の盲目の女性の発言から、その意味を真っ向からひっくり返され、それは単なる“言葉“を越え、生き方をも見つめ直すきっかけをあたえられることとなったのです。思えば作業所を立ち上げ30年になりますが、様々な障害をもったメンバーたちとの出会いと活動の一コマ一コマには、健常者がかってに思い込んでいる相手へのイメージや言葉や価値観に〝?〟を打たせることの繰り返しでもあったような気がします。この著はそんな体験と大いに重ね合わさせてくれ、再考させてくれる一冊だったと思います。

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