なぜ、急に大学時代のどうしようもなくモラトリアム的な甘ったれた政治活動遍歴を書く気になったのか考えてまして、ここ数日読みふけっていた吉本隆明の『戦後詩史論』(思潮社)の中の「修辞的な現在」に次のような箇所があり、触発された面があるのかもしれません。
「人間の生涯は今日も生き、無気力に勤めに出かけ、また帰ってきて、といったふうな生きざまの中に、本当は内面的な地獄といったものも、極楽といったものもみることができなければ、どうすることもできない。日常性の中に地獄をみることができない、つまり生死の境をみることができないような思想はおそらくは無駄だ」
また彼は“新版あとがき”にこうも書きます。
「わたしは詩(文学)が継承されるなどと信じてはいない。だから文学史という概念はげんみつに言えば意味をなさない。ただ文学表現史があるだけだ。また派、運動、系譜もげんみつに言えば成り立たないだろう。ただ詩や詩人の個的な影響があるだけだと言うことができるとおもう。」
これはまさしく、政治にもあてはまるのではないか。
文学を政治に置き換えればつぎのようになります。
「わたしは政治が継承されるなどと信じてはいない。だから政治史という概念はげんみつに言えば意味をなさない。ただ政治表現史があるだけだ。また派、運動、系譜もげんみつに言えば成り立たないだろう。ただ、政治や政治家の個的な影響があるだけだと言うことができるとおもう」
時代はまさに吉本が二十年前に指摘したような動きと色彩を強めてきていると思うのは私だけでしょうか。(夢屋代表 宮本誠一)
















