「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『島』・そのニ

 傾斜の中でもかなり深めのところを彼が選択し落込んでいったとたん、がらくたの幾つかがかすかに動き出し、黒っぽく穏やかな生き物の気配が走った。
 人間だった。
 相手は浮かぬ顔をしながら、その足元を白いものに覆われた側から道のくっきりと浮き出た彼のいる側へ入り込ませ、彼の立つ同じ場所へと近づけてきた。彼は首を軽く動かし微笑をおくり挨拶した。その返事として、相手が彼自身のことを和やかな気持ちを持って迎え、言葉を返すことは期待はできなかった。その浅黒い、おそらくさっきまで畑仕事をしていたことが体の至る所から滲み出している頑強でいながら静けさをも兼ね備えたその男の顔を彼は、確かに見て知っているというわけではなかったのだが、この島を数年前調査に訪れたときから島民のすべてに共通するあるものを、底に形をなくした泡末のように肌に染ませ持っている気がしたのである。しばらく沈黙がつづいた後、今いる場所がいかにも自らの生活の場らしく、義務的な感を残しながら尚、形として訊ねたのは男の方だった。
 「どこかでお会いしましたかい」
 それは、頂度自分にとってここが、毎度いつも通る仕事からの帰り道というような彼への落ち着き払った対峙であり、その態度にそのまま見合った言いぶりだった。
 「ぼくは地質の調査にやってきた者なんだが」
 その一言を聞いた後も、男は訝しむ顔つき一つせず無表情だったため、彼はやむなく相手の気持ちをはかりかね、更にもう一度同じことを繰り返さねばならなかった。
 「地質だよ。この島の地面のつくりと最近の変化の仕方をしらべているんだ。以前にも一度……」
 「へええ、チシツ……」
 男は、数年前のことはすっかりわすれてしまったとでもいうのか、それともまったくその当時も今もそんなことは気にもしていないし、どうあってもいいというのか少しも動じているふうではなかった。
 「確か三年前、この島が沈みだしてきていたことは、耳にしたことがあるんじゃないかと思うんだが」
 彼もこうなればやや大柄に相手を刺激し、出方を窺うふうに切り出した。
 「しかし、ありゃあ、今すぐということじゃなかったんでしょ」
 予想外な男の直接的な返答に、反対に彼の方が出鼻を挫かれた。
 「あのときゃ、そりゃ少しは心配しましたが、今じゃこの島のだれだってわすれていますさ」
 歯に衣着せずたじろぐことはなかった。彼は、ふとそのとき何を思ったのか、機先を転すかのように斜めに目をやり、がらくたの方を指差した。
 「あれは?」
 「最近、どんどん増えてきてましてね」
 男の頬の筋肉がそのとき緩み、それが取りようによってはニヤリと笑ったように思えた。 
 「前きたときは、まったくなかったんじゃ」
 彼の声も強まった。
 「この島の何人かの者は、白蝶って呼んでますよ。夜、これを見ると、そりゃあ羽を広げた白い蝶が、羽化してまもない頃のようにやわらかい産毛をさげて飛ぶように見えるんでさ」男は、少々息が速まってきているように話を先に進め、知らないうちにそうなるんだというようにやがてその息を殺し、詰めた。
 「シ・ロ・チョウ」
 彼は、膝を折り曲げ踞みその言葉を口元で反芻し、白蝶を片手に取り掌で転がした。そして、指先にひろったそれらに少しばかり力を込め粉に砕いて撫ぜた。その感触は、相変わらずざらざらしたものでなく、かといって滑らかさばかりでもない、中途半端に圧力をかけすぎた何層かの組織のようにそのとき彼には思われた。つまり彼には、これが、空を飛ぶ蝶に見える代物とは、到底思われなかった。だが、相手のこのがらくたへとそそぐ眼差しは、何かその中に魂の存在でも見てとるような、そんな熱い視線だった。彼は、さっきから相手が会ったときと同じつっ立った恰好でややこちらを見下ろしているふうだったため、しかたなく、そんな自分の気持ちを外に表さないように、ゆっくりと立ち上がった。

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