…夢なのだろうか。
年老いた男が一人、街中をひょろひょろと歩いていた。
よく見るとそれは、彼の父親なのだ。
父親が痩せさらばえ、今は見る影もなく、乱れた寝間着姿で街中を、しかもデパートのような雑多する人混みをふらつく足取りで歩いている。それを慌てた様子で引き止めようとする店員、それを振りほどき尚歩き進もうとする父親は、病院から抜け出してきたのかそれに応える充分な力は持っていない。あっけないくらいに簡単に捕らえられ、人混みから見えない場所へと連れ去られていく。よく見ると、店内ではクリスマスツリーが飾られ、歳末のバーゲンが行われている。すぐに周りから哀れなくらいがっしりと取り押さえられた父親の縦に歪んだ顔とその声が聞こえてくる。
はっきりとは聞き取れないが「海にいかせろ。海にいかせろ」その声はそう叫んでいる。
アサリ漁と海苔の養殖、それにわずかな田畑で生活を立ててきた父親。
しかしアサリは年々減っていき、海苔漁も次第にやってきた機械化に対処しようと、借金して買った機械の払いに終われる毎日がつづいた。シーズンの合間には、日雇いに出、暗くなり闇から現れる土固まりのようになって、毎晩ぬーっと帰ってきていた父親と母親の顔がそのとき彼には浮かぶ。そんな彼の父親が、今、叫んでいる。
彼は悲しくなった。
ところが、目を開き、しばらくそのことをまんじりとせずじっと考え込んでいると、それは実は父親ではなく、彼自身のことではないのかと思えてきた。海にいきたいと切々と叫んでいたあの声は、紛れもない彼の思いと声ではなかったかと。すると今度は、この島の姿が浮かんできた。島にいる彼本人の姿がである。島が、そんな彼の願いを聞き入れる場所だとでも言うように、そのとき島の全容は静かな波しぶきの中に穏やかに浮かんでいた。そうやって、また一段と悲しみが自分の胸に押し迫ってきたとき、彼は、その感情に耐えられなくなってきた。どこまでが夢かわからない、そんな夢を彼は、見ていた……彼は目が覚めた。いつのまにか彼は、まどろみかけていたようだ。彼の泊まった宿のすぐ隣の楼に吊された半鐘が高く鳴っている。島のどこかで火事が起こっているらしかった。彼に、よからぬ予感が走った。
布団から跳ね起き、『もしかして……』部屋から出ると、階段を駆け降り、外へ出た。それは、タケダのいる山寄りの方角だった。彼は、自分の判断に決して早すぎはしない確信を持った。着ている衣服もそのままに、急いで宿の外へ出た。タケダ住む小屋のある方角が赧く山間に照らし出されていた。
彼は尚急いだ。彼がようやく見覚えのある小道へ出たとき、タケダの小屋は見る跡もなく焼け焦げ、崩れ落ちていた。彼の頭には、すぐに残されたノートのことが浮かんできた。
あのノートが置かれていた棚は確か、あの辺りではなかったか。
彼は、まだ記憶に新しいその周辺をしっかりと見回した。回りには、島の若い者の一部で組織された消防隊の数人が取り巻き、まだ残る燃え滓と火の粉を無表情に眺めていた。白い粉が、打ち倒れた木切れに吹いていることから、消化には、海から湧き上がってくる井戸水を使っているらしいことが、たった今、来たばかりの彼にも見て取れた。しばらくし落ち着いてくると、タケダと息子のことが彼には気になりだした。これと言った人だかりもなく、遺体を囲んだ集まりもないようだった。
彼は、近くにいた男に訊ねてみた。
男は、ゆっくりした動作で彼の方に顔を向けた。すると、その男は、なんと暮れ方、彼にこのタケダの家を案内したあの顔なのだった。消防隊の火を通さない厚手の服を着込んでいるため外見からはわかりにくいが、その容貌は彼には忘れられない顔だった。
「あの人は、いませんぜ」
男は言った。
「わたしもすぐに火を消しに来たんですが、もう姿はありませんでした。おそらく、頂度、外出してたんじゃないかと思うんですが、……なあに、小さな島ですよ。騒ぎを聞きつけてそろそろ姿をあらわしてもいいころでさ」
彼は、その男の言葉を信じ、待つことにした。消防隊や、見物客が一人、また一人と消えていき、火事場には彼とその男だけが残った。彼は不安になった。もしかして、タケダと息子は既に骨まで燃え尽くし、死んでしまっているのではないのか。そのことを知らないのは自分だけで、のほほんと待っても帰って来ない者を待ちつづけているのではないのか。
生きていた形跡さえとどめぬほどに無残に灰となり風に吹き飛ばされ土中へ散在してしまっている親子の影だけが、今も形を残し、地面にくっきり苦しげに残っている、そんな光景が彼に浮かんだ。日記のノートは既になく、頼みの本人たちもこの島から消え失せてしまったとしたら、彼自身このまま島に残り、また今の地点から不可解な疑問を解いていかなければならないことになる。
そんなときだった。男が叫んだのは。