「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『ふしぎの国の運動会』・そのニ

           ある人の、ちょっとかわったじゅんび
 
 ツトムが家に帰ると母のマサミが、いつもより早く物産館の仕事を終え、待っていた。 
「ツトム、お母さん、明日の材料、何にもそろえてないの。だからすぐに買いにいきましょう」
 ツトムとマサミが車でデパートへ行くと、台風でこれなかったぶん、とくに食品売り場はこんでいた。一階のフロアで、あれこれ見ているうちに、買いものかごはいっぱいになった。運動会だけではなく、ここ一週間の食材も買いそろえたころ、ついでに二階の衣料品売り場ものぞいてみることにした。 
 「あらっ、古賀さん、お買いものですか」
 エスカレーターをおりてしばらく歩いていたときのことだ。マサミが、男物の下着売り場で品物を見ていた女の人に声をかけた。相手はハッとして、手にしていたものを台にもどした。
 「ああ、夏木さん」
 それからちらりとツトムを見て、
 「今日は、息子さんとお買い物?」  
 少しあいそうをよくし、落ち着きはらうように肩口に力を入れた。 
 「ええ、台風でなにもできなかったものであわててきたんですよ。古賀さんもですか」
 「そうそう、うちも息子のをね……」 
 今度は、さっきより早口だった。マサミも急いでいたので、それ以上は聞かず、かるく頭を下げた。それからツトムをうながすようにほんのちょっと目くばせし、くつ下がおいてある方へ向かった。 
 「ねえ、さっきの人だれ?」
 「古賀さんて言ってね。農業してて、とれたての野菜とかを物産館に出荷してる人よ。今、だんなさんが体育委員長だったかしら」
 ツトムは、今日の放課後、学校で見た野球帽の男の顔を思い出した。 
 マサミとツトムがべつの売り場へいなくなってから、体育委員長夫人、古賀道子も、手早く下着をかごにいれ、レジへもっていった。
 道子は財布からお金を払いながら、なぜあんなにドギマギしたのか自分の心の中を探るように、さっきまでいた下着売り場をボンヤリながめた。息子はすでに七年前に小学校を卒業し、小学校には少し年がはなれて生まれた二年生のジュンという女の子がいるだけだ。 道子の脳裏に、夫の直人のニヤケた顔が浮かんだ。
 直人は、運動会には新しい下着をきていかないと気がすまない。なんでも小さいときから運動会の朝になると、親が体育服の下をすべて新しいものにかえさせていたという。
 新品のメリヤスに肌がふれ、首やうでをとおしたときのにおいや感触がたまらないと、今でもうれしげなのだから仕方ない。そのうえ、今年は体育委員長になったことで、ジャージと運動ぐつまで新しいものを買いそろえさせられた。そのとき下着も準備しておけばよかったのだが、台風のさわぎですっかりわすれてしまっていた。ちょうどトマトの出荷の最中で、ビニールハウスが飛ばないよう、あれこれ動きまわるので必死だった。何気なく洗濯しようと夫の下着を見てとっさに気づき、大あわてで店にきたしだいだ。
 デパートであったことをあれこれ考え、道子が家に帰りつくと、しばらくして、直人も準備からもどってきた。
 道子はデパートであったことはだまっていた。今さら夫に言う気になれない。
 その夜のことだ。娘のジュンとお風呂に入り、上きげんのままふたりで寝室へいった直人のまくらもとには、くつ下とジャージ、下着、それにマジックテープの真新しいくつが、きちんとそろえ、置かれていた。直人は、道子が自分が注文したとおりのことを、ちゃんとやったことにじゅうぶん満足した。
 ふとんを肩にかけようとしたときだ。枕もとに置いたばかりの携帯電話が鳴った。
 「いよいよ、明日、よろしくたのむな」
 PTA副会長、富岡一郎の低い声が、受話器の向こうからとどいてきた。直人と一郎は、本人だけでなく、お互いの息子同士も小中学校で同級だった。
 一郎はつづけた。
 「ようやく、だいたいのだんどりはできたよ」
 「じゃあ、いよいよ虎男さんと勲さんを連れだせるんだな」
 「ああ、医者は命の保証はしないなんてぬかしやがったが、富岡の家は、運動会なくして語れないんだ。しゃにむにうんと言わせたさ」
 「そりゃ、よかった。親子四代のそろいぶみだね」
 「よりによってこんなとき親父まで入院したときはゾッとしたが、じいさんはもう先がないし、めいどのみやげに、孫やひ孫の晴れ姿を一度は見せてやりたいと思ってね」   「まあ、おれにできることがあったら、なんでも言ってくれよ」
 電話を切ると、直人は深い息をし、ジュンとならんでようやく横になった。
 道子のふとんもしいてはあるが、明日のお弁当やもっていくものの準備で、まだまだやすむわけにはいかない。これもまた、道子にとっては毎年のことだ。
 つかれはてた道子がぐっすりねむっている明け方、ベルはそんなことを知るよしもなく、まぶたをこじあけるように鳴りひびいた。
 記念すべく、直人自らが体育委員長の運動会がやってきた。直人は、ジュンや道子をおこさないよう急いでベルをとめた。幸い、二人はまだねむっていた。
 下着を着がえたあと、新しいジャージにそでをとおす。新品のあまいかおりが鼻先ににおってくる。そして、そろりとふすまをあけ、縁側に出た。サッシ戸をひらくと、まだ十月のはじめとはいえ、かなり冷え込んだ空気が流れ込み、ほほにあたった。
 直人は、手にもっていたくつを庭の芝生におき、指先から、かかと、くるぶしへとそっとつつみこむようにはいていった。今年は、下着だけでなく、くつも、ジャージも新しいことに胸の高鳴りはいっそうはげしさをましていくようだ。
 つづいて、ゆっくり地面の感触をたしかめながら立ち上がった。
 なにもかもが今、このときから始まる、そんな気がした。地球がゆっくりと自分を中心にまわっている、ふしぎな爽快感だ。直人は、いよいよこらえきれぬといったように大きく深呼吸した。体のすみずみまで、新鮮な空気がいきわたり、血液の流れがドクドクきこえてくるようだ。ピーンとはりつめたものがやってきた。今だ。直人は、そう直感し、毎年やっていることをはじめた。それは、除夜の鐘にひたりながら年越しそばを食べるようなものだ。
 まず、大きくジャンプだ。二回、三回、からだが宙に飛ぶたびに、全身にエネルギーがみなぎってくる。地面に着地したところで、やおら両手をひろげ、ラジオ体操第一番目の序曲は開始された。ひざをまげ、ひろげたり、とじたりし、くっしん運動をやっていく。
 うでを大きくまわし、腰の回転をつかって、そとまわし、うちまわしがくりかえされる。リズムがリズムをうみ、つぎつぎとからだはほぐされていった。
 直人は、関節の節々を動かしながらも、耳だけはたえず冷静さを保ち、ある一点の方向へ集中していた。直人の中ではいよいよ、クライマックスが近づきつつある。やがて、あの音とともに直人自身のからだも天までまいあがることになる。
 二度つづけて地面を思いっきりけり、最後に大きくジャンプしたそのしゅんかんだった。
 パンッ、パーンッ
 どこか遠くの空の彼方で、風船がはじけたような破裂音がした。予想より小さい、気のぬけたしめっぽい音だった。油断していたら、たくさんの保護者や子どもたちが聞きのがすのではないかと心配したほどだ。直人も思わず足首から力がぬけ、よろけそうになった。 「五島先生、しくじったな」
 それでもフィニッシュはやりとげねばならないと、かたむきかかったからだをもとにもどし、自分なりに考えた決まりわざにうつった。思いきって背中をまげ、胸をそらし、後ろをのぞきこむ。ひっくりかえった姿勢でVサインだ。 そのとき、縁側の廊下の上に、ねていたとばかり思っていた道子と娘のジュンが、ねぼけまなこで口をポカンとあけ、立っていた。下ぶくれした道子の不満そうな顔とジュンのあどけない顔が、湖面にうつったように逆さまに見える。
「おっ、ふたりともトイレか」
 「 ‥‥」
 「お父さん、一足さきにおきてね、こうやっていつも体操やってんだよ」
 直人は、まるでそこに娘しかいないような口ぶりで弁解した。こうして、ちょっとしぶめのバクチクの音とともに、それぞれの運動会の日は始まっていった。 

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