「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『具体的な風』・その一

               具体的な風
 子どもたちの帰った教室は、水の空いた花瓶に似て、暗い空洞に殺風景な植物が一本突き刺さっているように思えた。植物は、色の褪せた緋色の葩をもてあまし、水と縁が切れたため影をその随所に残したまま渇いている。机の下や教室の隅、本と本との隙間、掃除用具入れの中、棚の奥。そんなところに影はひっそりと息をひそめ、水が再び汲まれてくるのを待つ。
 一年担任の青野は、教室に残り子どもたちが塗ってくれたヨットの絵を一・ずつ見ながら花マルをつけていた。それは、算数の教材に彼自身が用意したもので、画用紙大の紙に大きな四角い枠が書いてあり、中は、直線で違った形に細かく区切られ、一つ一つ計算問題が書き込んであるB合わせて四十問あり、すべてこれまで練習してきた答えが三桁にならない二位の数のものばかりだ。計算して答えを出した後、ある特定の数字に限ってその線の内側を決まった色で塗りつぶしていく。十五のときは赤、二十五のときは青、三十五になると黄、四十五は緑である。そうすれば完成したとき、青い波間に黄色と緑の帆を掛けた赤い船体のいささか派手なヨットが一艚浮かぶことになっている。計算とは別の、簡単な作業を組み合わせた低学年ではよく用いられる方法である。
 答え合わせをしていくとき、青野は、自分用につくっておいた模造紙に大きく書き写したプリントと同じものを黒板に貼り出し、色チョークを使ってそれに直かに塗っていった。問題を四十問にしたのは、クラスの人数に合わせ全員に答えてもらおうと考えたからで、結局は時間が足りず、半分は皆で答を言っていくことになってしまった。塗りかけのヨットを手にするたびに、青野は自分自身に苦笑する。だが、その顔に後悔の色はなかった。時間配分などへの反省すべき点はいくつかあったが、それらが気にかけるほど重大なこととは思われなかったからだ。今日の算数の授業には何よりも彼が狙いとしていた子どもたちの全身から湧き起こってくる強い熱気があった。それだけで充分だった。やれなかった分はまた明日やればいい。青野は、そう考えていた。
 掲示物が風に煽られるようにカサコソ音を立てていた。こちらの方も早いとこ剥がしておかなければならない。まだ、作品が数・壁に留められたまま残っている。
 マルつけを終え、両手でプリントを束ねる青野の頭の中には、既に次の仕事のことが入ってきていた。早速立ち上がりそれに取り掛かる前に、彼は何かを訊きつけたようにおもむろに首を傾け、真っ直ぐに窓の外へ視線をやる。グラウンドでは、ぼちぼち放課後の部活動が始められようとしていた。ライン引きを持って準備する上学年の子がいる。円になり体操をやっているグループもある。風が強い。日が西に傾き、また少し冷たくなってきた。青野は、開け放たれたその窓の列を見た。いつもは帰りの挨拶の前に窓側の子に閉めさせるのだが、今日は、それをしなかった。子どもたちも彼も戸締まりのことをすっかりわすれていたらしい。
 作品を剥いでしまってから、青野は、自分の担当する部を見にいこうと思っていた。家へ持ち帰りになるにしても評価だけはきっちりやっておきたかったのだ。どんなことを描いているのか、もう一度自分の眼に徽しておくことは、今の彼にとって他と変えられない大切なことだった。部活の方は、彼が遅れて来ない分六年生がしっかりやってくれている。
 棚の上に乗り、青野は作品に手をかけた。さっきから擦れた音を鳴らしていたのは初めプールか、つい一週間前遠足で行ったばかりの公園の景色のように思われていたが、近づいてよく見ると、実は画用紙からはみ出すように描き込まれた人の顔の絵だった。バックに使ってある薄い空色と光の反射の加減で全然別なふうに見えていたのかもしれない。顔立ちは大きく、丸い楕円の形をしていて誰とはわからないが、笑っていることだけはその口もとや目もとの様子から伝わってくる。腰から下は急に小さくなり、それでも全身は画用紙の中になんとかおさまっている。足もとにはいくつもの花の絵が描かれていて、花壇の中に立っているようだ。思い出の絵というよりも想像画に近い。とにかく、たくさんの花に囲まれた自分を描きたかったのか、花の種類も一本一本色を変えたり、形を変えたりしてどこか違っている。題を一つに絞らず広い範囲で描かせると、こういった絵が出来上がるのが低学年ではかなり多い。まるで咲き乱れた草花や決まった場面の中にいる自分しか今までに見たことがないように、同じ情景や人物を飽きずに何度も繰返し描く。
 花壇の中の子は、女の子のようだ。スカートを穿いている。だが、容姿や着ている物だけではなかなかその名前まで判断はつかない。ほくろのようなものが右の眉のところについている。青野は、そのほくろでその子が誰なのかようやく見当がついた。はっとする特徴を子どもたちは自分でよく知っていることがある。
 窓閉めした後、作品と必要な道具を持って青野は教室を出た。人気の失くなった廊下は、教室よりはるかに肌寒く冷たい空気を擁している。北側にあるため、かえってそう強く感じられるのだ。少し力を込め後ろ手に閉め切った戸の音が壁を斜めに趨り、乾いた壑間に長く冴えた余韻を残す。右へ行くとすぐ突き当たりには階段があり、頂度その曲がり角の隅に置いてある給食の準備をする方形のテーブルが視界に入ってきた。キャスターの付いた鉄のチューブに翡翠色をした合板が取り付けてあって、使ったり直したりするときは抽き出しの要領で二台になったり、嵌め込めばまた一台の大きさになるようにつくってある。それを教室へ牽いてきたり、給食が済んで食罐などが持って行かれた後、汚れを布巾で拭き取り、もとあっス場所へ仕舞うのは日直の役目だ。今日も女の子二人が引き戸の敷居のレールに苦労しながらも、ガタゴト音をいわせて移動させていた。青野は、そんな場面を一瞬記憶から甦らせつつ階段へと足を向けた。
 「青野先生」
 若い女の声がいきなり耳に飛び込んできた。青野と同じく一年担任でバドミントン部を担当している吉塚君江の声だ。頂度、青野が階段を下り、荷物を置くため職員室へ向かおうと渡り廊下に差し掛かったそのときだった。青野はバスケット部を担当していた。君江は今年、短大を卒業し採用されたばかりで、形の整った丸顔にまだ学生っぽさのぬけきらないういういしさを残しており、おまけにこれから呼びに行こうと思っていた当人が突然タイミングよく眼前に現れたため戸惑いを賊しきれないふうだった。しかし、その慌てぶりが只事でないことはすぐに青野にも察せられた。
 「どうしたんですか」咄嗟に青野も訊き返していた。彼の脳裏には、一瞬ケガのことが走っていたからだ。
 「木村君たちが、またもめてるんです」
 青野は、それを訊いてまず事故でなかったことに安堵した。そして心配する君江には悪いと思いながらも、急いでそのことを知らせにきてくれた相手に頬笑ましささえ覚え、つい気がゆるみ「どうも御迷惑ばかりかけて」と軽く言葉を掛け、すんでのところでその先を思いとどまった。相手はこれまでに見たことがないほど真剣な表情をしていたからだ。大きな二重の瞼と瞳にはいつものかわいらしさはなく、自分がこうやって何度も同じ役をさせられることに軽い怒気さえ持っているように感じられるほどだった。
 「わかりました。すぐいきます」青野は、反対に気を引き締め直すと、自分が六つ年上であることを相手に充分意識させる落ち着いた声で返事し、歩を少しばかり速めた。君江の小柄な肩もその後につづいた。
 体育館へ行くと部員たちは、いつもどおりランニングを終え、パスの練習をやっていた。それは、一見するとどこの小学校でも眺められる平和な部活の風景だった。だが、その中に木村孝の姿が見当たらないことは、すぐに青野にも了解できた。彼はつかつかと部員たちのいる方へ歩みより、いくぶん強め気味の口調で「タカシはどうした」部員一人一人に適確にとどく声で言った。部員たちは、青野の姿を認めるとボールを投げ合うことを止め、まるであらかじめ話し合っていたかのように全員押し黙っていた。青野は、目ざとくキャプテンである松井延也を見つけ出し、もう一度訊ねた。 
 「タカシは、どこへいったんだ」
 延也は、青野に問われようともおどおどしたところも見せず、小学六年にしてはかなり大柄な躯を彼の方へ数歩近づけ「帰りました」と一言だけ言った。青野は、表情を変えず部員一人一人をもう一度ゆっくり見廻した。四年生から参加できるこの部活の中でタカシを除いた十一名の男子部員のほとんどが、今、青野の顔を直視できず俯き加減にして立っていた。ただ、その中で延也一人が、物怖じせず、じっと青野を澄んだ瞳で見詰めている。バドミントンのコートからは、君江の張りのある掛け声が訊こえてきた。彼女は、少しの間ほったらかしにしていた部員たちにてきぱきと指示を与えながらも、視線を時折り流すようにして、バスケット部へ送っていた。
 ボールを手に持ち向き合ったまま微動だしない子どもたちと、それに囲まれ立つ青野の姿は、これまで幾度か見てきた情景ではあったが、君江にはどこかまだ馴染めない異様な一コマに映っていた。君江自身、部活はもっと違うものと思っていた。彼女は、中学、高校とバドミントンをやってきた。短大では、講義と教員の採用試験の準備に追われそれどころではなかったが、高校までの六年間を通して、それなりにスポーツの良さは知っているつもりでいた。とくに忘れもしない高校三年のとき、彼女は県大会のシングルスで準決勝まで勝ち進んだことがあった。さしてずば抜けた体力や素質があったわけでない自分がそこまでの成績を上げれたのは、あのころ遅くまで人一倍の練習量をこなしてきていた努力と情熱があったからだと彼女は今も信じている。準決勝の相手にフルセットの末敗れたとき不覚にも流した涙と悔しさは、忘れようとしても忘れることはできないし、勝ち進んでいたときに味わった、あの何とも言えぬ壁を一・ごとに乗り越えていく爽快感は、今でも鮮やかに心に残っている。そんな素晴らしい思いを少しでも子どもたちにもわかってもらえたら。君江は、それだけの気持ちでバドミントンのコーチをすることを引き受けた。今年新採としてこの学校へ赴任してすぐのことだ。もうあれから半年が過ぎている。
 『それにしても……、』と君江は再び思う。
 全校合わせても、一、二年生を除き一クラスずつの八クラスしかないこの小さな学校で、同じ体育館を使用するもう一つの部活であるバスケット部を眺めてきた彼女は、そこに繰り広げられるものが、あまりに自分が考えてきたものと懸け離れているこニを知り、驚かされた。そこには、スポーツ特有のすがすがしい汗とか涙といったものはなく、それどころか反対に、それらを抜き去り勝ち負けといった目標を取り去ってしまったらきっとこんな状態になるのではないかと思えるほど渇いた、しかしその渇いた分だけ何かを袖めている、そんな切ないまでの子どもたちのきりきりとした世界が広がっているように感じられたからだ。外から覗いただけでは伸びやかでまとまりかけているとしか思えない子どもたちの中へ、青野という一人の教師がちょっとした隙間を見つけ出しきては、そこから土足のまま踏み込んでいく。彼らなりに工夫を凝らし堅固な城をつくり待ち構えていたはずの子どもたちは、その結果レンガを一個ずつ奪い取られることになり、青野という不法者の攪乱と彼ら自身の脆さと弱さとによってみすみすできたばかりの城を瓦解させていく道をたどってしまう。それにもめげず子どもたちは、そうやって次の日、また次の日とより頑丈な城へと自分たちの囲いを練り上げていくのだが、青野の方は慌てずに一つずつ壊していくことを忘れはしない……。
 これは、すべて君江の思い過ごしなのかもしれなかった。青野は、そんなことは少しも考えず彼持ち前の屈託のなさで子どもたちと接しているだけかもしれない。だとしても、木村孝が、たった今仲間たちと揉み合いいなくなってしまったこと、それは君江にも充分注目するに価した。これから青野がどんな行動をとっていくのか、君江は半ば呆れながらも期待を込め、興味深げな眼差しで見詰めていたのである。
 ひととおり部員たちの顔を眺め、視線を延也に戻した青野は、少しばかりこれまでとは違うぞと言いたげに両腕を腰のところに持っていき、低い声を上げた。「全員そろうまで練習は中止だ。今日は、これで解散」
 これを訊いた子どもたちの間からは、即座にいくつもの溜息が洩れた。中には、ボールを激しく床に叩きつける五年生の子もいた。青野は、気にせずつづけた。「ボールはちゃんと片付けておけよ。忘れ物がないようにな」それだけ言い終わると、彼は振り返り躊躇せず体育館を出ていった。
 君江は、呆気にとられていた。これまで同じような場面を見てきたが、今日のように青野が強引な態度を取るのは初めてだった。それは、今まで君江自身が目の当たりにしてきた木村孝と松井延也を中心とした、ときには他の部員たちをも含めた掴み合いのケンカや言い争いなど練習前か始まってからの相変わらずのゴタゴタが生じたとき、見るに見兼ねた彼女が自分の躯を挺して止めに入り、それでも手に終えなくなったとき、おろおろしながらも彼女の担当するバドミントン部の子に助けを借りて青野を呼びに行かせ、小走りにやってきた彼がまず部員たちのいる前で開示して見せていた態度、それにそのときのすまなそうな表情らと、明らかに一線を違にしていたのである。 
 そのときも練習をひとまず中断させるようなことはしていたが、皆を円になり座らせたりして、一人一人の言い分や話を青野はじっくり訊いていた。そして彼自身、どちらかと言えばそうやって訊く側に回りながらも要所要所に関しては丁寧に子どもたちに対し答えを返していっていたはずだ。君江は、それを見ながら青野のときどき見せるそんな冷静な態度がどこかじれったく、呑気な振舞いに映らないわけではなかったが、さすがに経験というようなものを感じ、赤く腫れ上がるほどの痣までつくり子どもたちを制止しようとした自分がわけもなく腹立たしく力の無い者のように思えてきて悲しくなり、そんな問題を起こした後も膝を交え話し合えるバスケット部が羨ましく、彼らや青野に不思議と魅きつけられる何かを感じたりしていたものだ。 
 とは言っても、青野はけっして部員たちを自分の手でまとめようとはしていなかった。その証拠に、実際そういった次の日も彼はやはり遅れてやってきていたし、部員たちにいくつか指導したりもしていたが、その内容はいかにして部員たちを上達させチームを強くするかといったことではなく、却って型通りにおさまっているのはつまらないと言うふうに練習の順序やコンビの相手を入れ替えたり、練習試合ともなるとメンバーはまるっきり普段と変えてしまい、ポジションまである程度指示した挙げ句、そのことで部員たちがぶつぶつ文句を言っても一向に取り合う気配は見せず、ようやく子どもたちがそれにも慣れ熱中し始めると、今度はキャプテンである松井延也に後は任せ、退屈そうにしながら本人はいつのまにか姿を消してしまっているといった有様だ。
 毎日を時間をオーバーさせながら児・に付きっきりで指導していく君江から見ると、それは歯痒いまでの気儘な部活への対応ぶりと言えた。

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