「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『具体的な風』・その六

 

 指先の柔かい腹の肉がガラスで裂け、血が床に一滴、ゆっくりと瀝った。部屋の隅に散らばったガラスの破片を素手で拾うことをその男の子は止めようとしない。男の子の頬は赤く腫れ上がっていて、うっすら手形までついている。少し下がったところには、さっきその子を殴った父親が興醒めた顔をして立っている。
 「そのくらいにしておけ。もう充分だ」 
 男の子は、父親の見せた懐柔を素直に受け入れようとしない。彼は、電燈の灯りを照り返しながらチカチカ顫えるように光るガラスの小さな一欠けらに言い知れぬ哀感を・き、手で掻き彙める動作を何度も繰り返す。手の平のどこかに破片が突き刺さったらしくズキズキ痛む。
 「後は、母さんが掃除しておくから」
 見兼ねた母親の手が、無理やり彼をその現場から退けようとする。一緒に遊んでいた三つ年下のまだ・い弟は、傍で怯えながらその情景を見ている。
 罰は、す造て兄が引き受けるのだ。たとえ扉の飾り窓を割ったのが、二人がふざけてやったことだとしても。四人家族の住むけっして広くない家の中で、ごたごたの少なくとも半分以上の責任は自分に負わされているのだと彼は、小学校にいる間まで思いつづけていた。
 『その頃の俺の目は、きっと今のタカシが時折り見せる大人への侮蔑を含んだ目に似たところがあるに違いない』青野は、闇色の薄暗いカーテンがすっぽり包み出した団地の階段に座り込み、そんなことを考えている。
 三つ違いの弟と自分への対し方の相違の理由を、彼はこうも考えていた。要するに、自分は、父親と母親にとって蟲の好かないところばかりを持って生まれてきた人間なのだ。だからこれは、仕方のないことなのだと。そもそも目つきは鋭く、どこか大人を馬鹿にしたようなところがあったし、負けん気も人一倍強く、強情で、後でズボンが穿けないくらい酷く太腿をぶたれても泣き声一つ上げなかった。かと言って注意されれば素直に訊き入れるといったところもなく、何事にも従順に行動しようとしない。まだ若かった両親から見ると、殴っても殴り足りない……これは実際にその当時の父親の決まり文句でもあったのだが、そんな相手を憤激させてしまう要素をしっかりと持っていた。それに引きかえ弟は、どこか要領が良かった。顔立ちも悪くなく賢そうで、何よりも、両親に気に入られていた。彼らの言うことはよく訊き、叱られたら泣き出すときを心得、取り入る術を知っていた。
 青野はニガ笑いする。
 屈折した自己と弟へのコンプレックス。長男であれば誰もが多かれ少なかれ通過せねばならない儀式。二十七になった男が回想することではない。自分は、充分恵まれていたはずだ。両親も健在で、家もあり弟もいた。なのにどうしてあれ程、あの頃の自分は毎日がつまらなく嫌悪す造きものとしか映らず、周囲の者を憎しみある目で見詰めていたのか。
 いくつかの場・が、疑問符のような形となって青野に思い浮かぶ。
 あれは、小学校六年生辺りか。日の昇りかけた朝方、青野は初めて夢精を覚えた。こっそりと下着を替えている自分の後ろ姿を誰かに見られてはいないかと心配して以来、彼の視線はある事象を捉え始めていた。青野にとってのヰタ・セクスアリスの幕開け。 いつか性交するであろう自分の顔。それは、両親と弟が眠っている隙に、夢の中ではっはと自分の口元をついて洩らされた吐息の分だけ歪んで見えていたはずだ。朝食の間、そんな日に限っていつになく快活な母親と、こちらはいつもどおり無口に黙りこくっている父親を前に、何も知らない弟を横には造らせた彼は、これもまた彼にとっては珍しいほど饒舌になり、家族の者たちを笑わせることに懸命になった。取り立てて特別なところもない、その当時の家庭ならどこにでも見受けられたはずのありきたりな食卓が、何か彼の小さな口元を突いて出てくる一言一言によって、華やいだものに変わるとでも言うように、それは行われた。
 やがて、青野が中学に入学した時僅かに猫の額ほど残っていた土地に木工たちはやって来て、彼の勉強部屋はつくられた。青野は、彼個人の孤独と引き換えに、父親と母親、そして弟の寝床からも敢えなく引き離されてしまった。
 次の場・は、彼が中学二年のときの学校の職員室だ。確か、三学期の初め頃だったと思う。青野は、その日学活が終わってから、まだ若い部類に入る担任の教師に話があるので一緒に来るよう呼び止められた。
 職員室の中央に置かれた発火式の大型ストーブの周りには何人か青野の見覚えのある教師が立ったまま煖をとり、世間話をしていた。彼が担任の後ろに付いて入ってくると彼らの退屈そうな視線はうろんげにそちらの方へ向けられ、話はしばらく中断した。ひそひそと話す声はさっきより小さいが、ときどき押し殺したような嗤い声がする。だが、それもしばらくのことで、やがてまた二人が持ち込んだものが差し迫った問題でないことがわかると、遠慮は徐々に解かれ、ざわついた喧噪が輪となって拡がっていった。それでも興味を持ちつづけている教師はいて、遠目がちに二人の様子を窺っている。
 「昨日やってもらった意識調査のアンケートのことなんだが」体育を担当するその教師は、椅子に腰を下ろすと煙草に火をつけふーっと吹かし、三十になったばかりの日に焼けた精悍な顔をくゆらせ、用紙を一枚取り出した。青野は、まだ何のことなのか見当がつかなかった。                   
「自殺の項目のところで」
 『自殺?』
 青野は、担任の口からその言葉を訊いたとき、一瞬自分の表情が硬く強・るのを知った。それを見て、教師は気を利かして頬笑む。
 「クラスで君一人が自殺したいと思ったことがある方にマルをつけていたものでね」 
 気のせいか、「君一人」という語を強めて言っているように思える。
 周りにいる他の教師たちの視線が青野にはどうも邪魔になる。彼はそのとき、自分でも気づかなかった彼自身の内にいたもう一人の自分の声を光源のとどかなかった洞穴の奥から訊いたように思えたし、また、自分のことでない誰か見も知らぬ他人の話を教師がわざわざ訊かせてくれている、そんな気持ちでもいた。
 『自殺。たしかに自分なら書いたかもしれないが……』
 しかし、青野自身、すっかり何に印をつけたのか忘れていて、その項目にマルをつけたという確信はなかった。
 「僕は、そんなもの書いた憶えはありませんけど」
 「ところが、お前は、こうやって現に書いてるじゃないか」
 教師の口調が俄かに変わってきた。一体、相手は何を言いたいのか。青野はそのことの方が余程知りたく、疑問でならなかった。アンケート調査によって自殺する可能性のあることがわかった自分の担任する生徒を早めに説得しておき、その理由なり事情を詳しく訊き出した上で、できるだけ力になろうとでも言うのか。彼は、担任の差し出す紙には目もくれず、戸口の方に顔をそむけた。早くそこを出て、外の空気が吸いたかった。そんな彼の態度が、相手を刺激し神経を苛立たせたのは無理もなかった。教師は、吸いかけの煙草を灰皿の上で揉み消すと、
 「いいか、よく聞けよ」
 青野に強引に視線を向けさせるような勢いで刺すように言った。
 「自殺は、逃げだからな。逃げ。人生からの逃げだよ。わかるな。お前にどんな悩みごとがあるのかは知らんが、結局は逃げなんだ。後一年もしてみろ。中学三年頃になると死にたいってやつらがうようよ出てくる。全員、受験勉強が嫌でそう言うんだが、そいつらは、あれこれ自分に都合のいい理由をつけてるだけで、要は、眼前にある受験から逃げることだけが目的なんだ。わかるか。おまえの理由が何なのか先生は敢えて聞かん。だが、そいつらと一緒になって人生の敗北者になることだけはするんじゃないぞ」
 そこまで一気に話すと少しは満足したのか、教師はさっき揉み消したばかりだというのにまた煙草を一本取り出し、火をつけた。机を挾んで反対側に座っている隣のクラスを担任するやや年配の女の教師は、今言ったその教師の考えに同感なのか頻りに小首を傾け、頷き返している。一服つけた教師は、自信たっぷりにまた喋り始めた。
 「お前は、成績も悪くないし、このまま順調にいけばN高校には行ける。そうなれば楽しいもんさ。中学校での苦労が一遍に報われるんだからな。それよりも、今早まって変な考えを起こしてみろ。す造てはそれで終わりなんだ。世の中はそんなに甘くない。両親も悲しむだろうし、何よりお前自身が後悔することになる。先生は、そんな生徒を自分のクラスから出したくないんだ。わかるな」
 「先生の中学二年のときなんか……」 
  その日、家に帰ってから、青野は初めて本気で死ぬことを考えた。
 自らが求めた自分の死。それは、その当時彼に残された最初で最後の自由の選択であり、逃げ道であるように思われた。
 既にそのとき一個の死は、教師の吐くどんな台詞より直接的で新鮮なイメージとなって彼の脳髄を犯し始めていたのだ。
 生きるためには、どうしても死を獲得しなければならない。そんな漠然とした実感。そんな逆説のみが信じられる。おそらく彼は、そのとき自分でははっきりとはわからないながらも、そうした幻想を・くことによって現実の拘束から逃れ、自己を欺くことによって他者を信じ、自分の存在を消すことで回りにある不可思議な疑問が解決できると勝手に思い込んでいたのではなかったか。
 それから数日後、青野は実行した。
 家に一人でいるときを見はからい、彼は自分の部屋のカーテンのレールに布製のマフラーを結び付け、そこに首を掛けたのである。教師との一件以来、彼の中には死というものが膨れ上がり、もはや抑えがたいところまできていたのだ。
 首をそっとマフラーの輪の中へ入れ顎の下に置き、思いきって椅子から飛び下りた。布のマフラーは、細く括れ、たちまち直かに食い込んできた。レールは、ガタッと大きな音を立て軋んだが、何とか持ち堪えているようだった。息が出来なくなり、顔中が鬱血し、やがてさーっと血が引いたように真っ青になっていくのがわかった。意識が遠くなっていった。全身が痺れ、感覚が失せていた。
 「死ぬっ!」と彼は思った。
 その瞬間、彼は両目を瞠り、濃淡を失った前景の中、無意識の裡に脚をばたつかせもがいていた。躯を甲蟲のようノ縮めては伸ばし、首を締めつけてくるマフラーを引きちぎろうと指先で掴み掻き毟った。マフラーに手の甲まで捩じ入れ、少し呼吸ができると息が仰々しく荒った。アシカの哭くような声が咽喉奥からした。胸骨が波打ち、今にもばらばらに砕けそうだった。気力は萎え限界にきていた。「もう駄目か」頭を凄まじいスピードでその五文字が過ぎった。そのとき、二度目にレールの激しく鳴る音がし、留め金が外れ彼は、床に振り落とされた。後頭部を椅子でしたたか殴打し横転した後、しばらくし俯したまま身動きできなかった。レールと一緒に落ちてきたカーテンの下に隠れ、彼はいつまでも沈まらない息を・え、やがて襲いかかる吐き気に噎び返った。
 団地はすっかり闇に閉ざされてしまい、青野が座っている三階の踊り場は、外気をもろに受けるため急激に冷え始めた。彼は、ゆっくり立ち上がると奥に歩き、露台のように外が見渡せる手摺りに肘をのせた。
 彼は、見ていた。
 晴れ渡った秋空の下に暮れかかってしまった地・に影を落とし低く軒を連ね建ち並ぶ民家とその一建一建の窓から洩れ出る電燈の灯の光を眺め、そこに日々繰り返されるであろう家族の団欒や確執や零れ落ちる子女の笑い声や煖い父親のぬくもりと、一人の女や子どもからも愛されず、一人の女や子どもも愛せぬまま死んでしまった男との違いを考え、途・れがちに皿が鳴り食事をする風景や、いつの間にか皺の増えた老人とその手に引かれることが何よりも楽しみな孫と置き去りにされ懶げに泣く子犬への行き場のない自己との連関を気にし、十数年後の今、あれほど自分でさえ欺けなかった自分がやすやすと教師の道を選び、生徒の家の前で扉が開かれるのを待っている現実を不思議だと思い、星が早く出ないものかと心配もし、こうしている間にも天体は移動し、時間は刻々と過ぎていくのだというその想いに直接触れてみたいと耳を澄まし、案外それが身近にあった自分の心臓の鼓動の響きであることに気づいたあの日のことをできるだけ長く心にとどめるため、寒さに顫える我身を、寒さに顫えまいとすることで解決を得た月日を遠い国の人のように生きる今の自分と、首の痣が消え失くなっていくことが新たな旅立ちであると信じていた十代の頃の自分と照らし合わせ、その間隙の変位のいくばくかを可能な限り見とどけてしまうつもりで、彼は、そこに風を稟け立っていた。何のわだかまりのない地上と同じく何のわだかまりもなくなった彼の内地の端々をいつか結びつけるため駆け巡るであろう具体的な風を。
 枝分かれしていく血の流れが遠い歳月を思わせる。そのことを遼かに見やろうとするといくつもの顔が現れては消え、気にかかってしまうほどの重さで青野の忘れかけていた鳩尾を擦り抜けていく。不思議とそこには斃れていった者の顔が多い。病で早くに逝った者、事故で思いがけなく逝った者、逡巡する彼を横目で睨むようにあっけなく自ら命を落とした者。そんな彼らが青野に語りかける。
 青野は、既に始めていた。そろりと足を動かし自分自身を一周できるまでに、ときには吐き出したいことを吐き出せないままにして、そのことに永遠に近づけていくことで二度と満足させることがないよう、瀝ってくる鉄の鎖だけを手掛かりに舌先へ転がし、歩いていく。
 『今は、子どもたち皆が俺の顔だ』
 そのことを認めたいために、たとえ早く終わらせることにしか自分を向かわせず疲れ果てたとしても、青野は振り返らないつもりでいた。区・りをつけてしまうことへの憧憬は、やがては自分の意識の表・から消え去っていくものだから。
 青野は我に返ると、玄関口へ行き、来たときと同じようにブザーを押した。今度は名前を呼んだり、扉を叩いたりはしなかった。二度続けて押した後、静かに待った。
 鍵の外される音と一緒に扉が僅かに開き、孝の恐る恐る覗くその顔が見られたのは、それから三十分程経ってからのことだった。

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