「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『具体的な風』・その七

 
 「先生、今日のおかず残していいですか」
 女の子が一人、君江の机にやって来て尋ねてきた。君江は、その声を訊いてやっと現実に返ったというように、日頃から耳馴れた子どもの声なのに怪訝げにその顔を見、確かめる素振りをする。そんな彼女の気の抜けたあやふやな態度が滑稽なのか、くすくすと笑う子どもたちの声があちこちから洩れ始める。
 「ええ、いいわよ」平生に戻った彼女は、簡単にそう返事した。『しまった』すぐにうっかり口をすべらし甘いことを言った自分に後悔するがもう遅い。相手は、拍子抜けしたようにきょとんとなっている。
 「ほんとにいい?」女の子は、いつもの君江と調子が少しばかり違うため、しつこくもう一度訊いて来た。「いいのよ。食べきれないんだったら、無理しなくても」こうなれば、君江も後は開き直るしかない。
 彼女がそう言ったとたん、話の動静に訊き耳を立てていた給食に悪戦苦闘する他の子どもたちの間から、やったあ、という歓声が湧き起こり、一斉に笑みが零れた。反対に、いつものようにがんばって食べていた子どもたちの方からは不満の声が飛ぶ。
 「先生、ずるい。そんなのないよ」
 彼女は微笑って答える。「人は人、自分は自分。しっかり食べた子が一番偉いんです」 相手は、不服ながら何とか納得し、ほら見たことかとさっそく残す準備に取り掛かり食べることを止めてしまった隣りの子を一瞥する。
 クラス全体を見渡してみると、そんな一部の賑やかさとは別に静かにいつもと変わることなく淡々と給食を口にしている子どもたちもいる。
 君江は、子どもたちが給食を食べている姿を見ながらぼんやりと青野のことを考えていたそんな自分がどこか面映ゆく、一瞬教室全体を見廻し、どこも普段と変わらないことを確かめ、また安堵した。
 窓から校庭を覗く。昨年の卒業生たちが植えていった樅の木が何本か、遠く道路とグランドを隔てたフェンス手前で針のような葉をしきりに弄ばれ、風に揺らされている。君江は妙な気持ちになる。変だ。昨日見た体育館での場面が忘れられない。青野と子どもたちが君江の目の前でそれぞれにとった態度、あれを一体どう判断すればいいのか。君江は戸惑いながらも青野たちの世界にずるずると引き込まれていく誘惑を感じている。徐々に熱に浮かされ朦朧としていく思いだ。しかし、あの対応だけはどうしても納得が行かなかった。青野が理由も訊くかず、子どもたちを解散させてしまったことだ。教師と生徒との間にあんな無茶なことがあっていいのだろうか。君江には気になって仕方がない。だが、子どもたちは、青野がいなくなってから一旦は帰りかけたものの自分たちだけで練習を始め、却っていつもより立派なくらい熱心にやってのけたのも確かなのだ。わからない。青野の指導は、実は綿密に計算された上で成り立っている極めて精緻なものなのかも知れない。そのことが君江にはさっきから気に掛かって仕方がない。
 「これ、だーれかやーるーぞ」
 元気のいい男の子が、今日の献立の一つである一口チーズを手に持って回りの者に呼び掛けた。近くにいた何人かはそれを訊き付け、さっそくチーズが欲しい者が集まり小声でジャンケンをしている。
 「勝った、勝った、オレ、オレ」はしゃぎ声は次第に大きくなり、それに煽られるようにまた別のところから名乗りを挙げる者が出てくる。「これ、だーれかやーるーぞ」 こうなると騒ぎは後を断たない。そろそろ歯止めを打たなければ。君江はさっきよりかなり厳しい口調で注意している。
 「人にやるのはなし。食べれないのなら残しなさい」               子どもたちにとって献立ての一つを皆の前に提供することは、それを食べずにすむことが嬉しいのではなく、それ以上にそれを手に入れるためジャンケンをする友達の姿が何とも言えず愉快で自分が中心になったようで楽しいのだ。そのことを君江に制せられた彼らはすぐに人にやることをしなくなる。だが、子どもたちはそれらのことをはっきり意識化しているわけではなく、頂度無意識との中間点のようなところにいて、自分自身わからないままに行動していることが少なくない。君江は、そんな子どもたちの言動をできるだけ奥深く見抜きたいと思っている。数え年で七才になったばかりの彼らの世界を知り、もっと多くのことを学びたい、そう考えている。
 お昼の放送が始まった。スーピーカーから放送部員が今日の献立てを発表し、ビデオの時間を告げる。
 「先生、早く早く!」教室手前の窓側の班で食べていた子が、君江に声をかけた。君江は頷くと目で合図を送り、男の子を一人後列の班から呼び出した。その子にはテレビのスイッチを入れる係りをやってもらっていた。教室に一個だけ余分に置いてある小学生が使う中では二番目に小さい八号の椅子の上に乗って腕を伸ばしスイッチまで余裕をもってとどくことができるのが君江のクラスにも何人かいて、その子たちに自分たちで籤をつくってもらい決めてもらったのだ。男の子は、隅から椅子を胸のところまで抱きかかえるようにして持ってくると慣れた動作でそれをやり満足気に自分の席へと戻っていく。つづいて君江が、光が反射しないようテレビ横の窓に掛かった白いカーテンを引き席に着くと始まり始まりだ。
 今日は、ガリバー旅行記の最終回で、ガリバーが裏切られた部下たちに馬人の国に置いていかれ、そこでヤフーやフウイヌムたちの生活に驚きながらも徐々に親しんでいった昨日に引きつづき、今回は、いよいよフウイヌムたちの会議の結果、やむなくそこを丸木舟に乗って出ていくという場面である。もちろん、子ども用につくられ放映されたテレビの人形劇から録画されたその場面には、ヤフーのこともガリバーと彼を助け隠まってくれた馬人の家主との会話のことも詳しくは出てこない。ただ、全身毛むくじゃらのヤフーの人形と肌も透きとおるように白く銀髪を綺麗に束ね、金モールの付いた赤い上着を纏ったガリバーの人形とでは、確かにどう見ても同じ人間とは思えないようで、ヤフーの終始発するその奇矯な叫び声だけがやけに耳に残ってしまう。
 馬人が最初にガリバーに向かって叫んだ言葉、それが“ヤフー”であったにもかかわらず、その衣服を皮膚と思い込み理性の存在だけは否定できなかったのと同じように、ガリバーが反対にヤフーを醜悪な怪物として見て取ったこともまんざら事実に反したことではないように君江には思えてくる。
 子どもたちはビデオの画面を釘づけになって見ていた。中には食べていた物もそのままに口をあんぐりと開け、手もスプーンも動かさず静止した状態の子もいる。目だけが虚ろに耀き、画面の進行を追うように固唾を呑んで見守っている。給食は一向に捗った様子はない。君江は、そんな子どもたちの視線を一点に集めるテレビのすぐ真下で、彼らの抜け殻になってしまった表情をこちらからも黙って観察しつづけていた。
 そこでは、ついさっきまでチーズを持って騒いでいた子も隣りと何やら忙しく話し込んでいた子も無心に画面に攬りつき、その違いは全くといって見当たらなかった。いつも目立たず自分の調子を崩さず落ち着いて食事をしている子さえ、この時だけは他の子と同じように首をテレビの方へ傾け、一口、二口食パンを手でちぎっては丸めるようにして口の中へと詰め込んでいる。そんな中で何人かが、君江のいつもと違う畏まった顔付きと教室全体を見回す改まった態度を変に思うらしく、彼女と目と目が合うたびに照れ隠しのつもりで微笑み返してきている子がいる。
 確かに今日の君江は、子どもたちから見て普通でないように映るらしかった。どこかそわそわしているようでいて、その実何かを探しているようでもあり、子どもたちへの対応や授業の運び方もいつもより丁寧だ。そんな君江の一見繕った平常と僅かにズレを持つ心理を子どもたちは身体のどこかで嗅ぎ分け見抜いている。ただ、彼らはそれらのすべてを意識し表わすことができないため、気持ちと躯の動くがまま振舞うことが多く、君江の方もそんな子どもたちの日頃の様子を見聞きし、触れ、言葉にし、行動へ移しながらもまた感覚へと戻し、そうやって結局はお互いに感じることから相手の存在を確かめ、この教室での一日を過ごしているのである。
 給食の終わりのチャイムが鳴るのとほとんど同時に、君江のクラスでは後片付けを始めることにしていた。早くから食べ終わっている子は時間が近づくと待ち遠しそうにそわそわと肩口から半身にかけ動き出す。黒板の上に掛かった時計を見ながら声を出し秒読みをする子までいる。頭の中は次のお昼の遊び時間のことで一杯だ。
 時計の針をものありげに見た後、君江は日直を呼び出した。今日は、男の子二人が当番になっている日である。二人はいそいそとやって来て前に立ち、お互い息を合わせるかのように顔をちらりと見合ってからごちそうさまでしたを言い、クラスの子たち全員の声がその後につづいた。
 どたどたした足音や机や椅子がものものしく移動する中で、後片付けは始められた。一学期の間片付けの順番は細かく決められていたが、二学期になってからその規則も取り払われ、今はめいめいばらばらにやっているのだ。
 君江は、自分の御盆を持つと子どもたちのつくっている列の一番後ろに並び、すかさずその前にいた男の子に振り向き様訊ねられた。
 「先生、五時間目は何をするの」
 君江は、その質問にどう答えてやろうかあれこれ思いながらも相手の顔から目を離さず、予定どおり算数のおさらいをすることをわりとあっさり告げてしまった。それを訊いた男の子の顔は、たちまちニンマリ崩れていく。回りにいた子や、そんな話とは無関係に耳元にもとどいていない様子で自分の椅子に陣取ったように食事をつづけていた子たちからも、いかにも嬉しげな声と嫌そうな不満の声が半分ずつくらい混ざり撥ね返ってきた。
 毎週、土曜日に手渡される学級通信には、家庭への連絡の他、次の週の時間割りとその内容が書かれてあった。それに今日は、朝の学校と二時間目にあった算数のときにもこのことは念を押し君江の口から知らされていた。にもかかわらず、今子どもたちの見せた反応は初めて訊く者のように新鮮である。
 子どもたちは、往々にして他の子どうしが話していること以上に、教師が誰かに話し掛けるのではなく、誰かが教師に話し掛けるその言葉に対し敏感なときがあるが、今の場合、男の子が訊ねた質問自体クラスの皆の興味をそそるものであったと言えば言えないこともない。教師との約束事は、子どもたちにとってはその都度確認し直さなければならないもので、それまでにいくら同じことを繰返し言ってあっても、それはそのときだけにしか思ったほどの効果はなく、後には一部の子を除いてすっかり忘れ去られるか、ぼんやりと記憶の中にとどまりながらもすぐに消え去ってしまう。しかも、子どもたちの表情からはそのことをまだちゃんと覚えているように見える子さえ、問い返してくるたびにもしかすると前と違った答えが教師の口を突いて出てくるのではないか、という期待と不安感に似た感情を常に持ち合わせていることが窺え、そのほとんどが直接教師に伝えられるのではなく、一人一人目的とは別の形や反応をとることによって相手の感覚へともたらされてくる。おそらく君江自身が子どもたちに対し、もし今自分の置かれている状態や不安といったものを彼らにもわかるように伝えようと思えば、やはりそうするしか他に方法がないであろうことと同じように。
 食べ残したパンやおかずは決められた食罐の中へ戻され、使った食器類も籠の中に入れられていった。食器には、おかず用のお椀と皿の二種類あり、他にはスプーンと牛乳の紙パックといったところが四角いアルミ製の盆の上に載せられてある。パックは、重ばらないようストローを差し込んだまま中の空気を抜き、平たくしてから元あった容器へ捨てるようになっている。食器の方も、皿がパンとおかずを置くところの二手に分かれているため、その溝をきちんと重ね合わせ載せていく。君江が注意しやり直させても、また次の日、今度は別の違った子が守らない。それは、子どもたちの誰ということではなく、クラス全体を流れる捉えきれないもののように入れ変わっていくのである。
 片付けを済まされると君江は、自分の席からしばらく子どもたちの様子を眺めていた。子どもたちは食器類を置いた後、御盆を水道で洗い布巾で拭き取り、元あった棚へと仕舞っていく。それを終えたほとんどの子は、教室を飛び出しグランド目掛け一目散に駆け出し姿を消してしまう。時たま階段からお互いに走るのを注意しようとする叫び声が訊こえてくるが、一向に慌ただしい気配は治まることはない。
 君江は、おもむろに子どもたち一人一人の表情に目をやった。そこには上空から窓を手掛かりに射し込み逃げ道を失った暗紫色の光が、子どもたちの顔をちらちら舐めながら漂っていた。ガラス窓が閉められてあるため脂っこい饐えた臭いも抜け切れず、澱んだ体液のようになって部屋中に充満している。君江は立ち上がり窓を開けるよう子どもたちに告げた。たまたま傍にいた何人かが競うように分かれ、机を撥ね除ける勢いで窓枠に飛びついた。窓はガラガラと音を立て開き、深まった秋の冷たい風を外からどっと運び込み、室内に溜まった熱気を持ち去らせた。君江はそのことを肌に感じながら、膝もとに擽ったさを覚え視線をそこへ落としてみた。男の子が一人、君江の机の下に潜り込んでいた。その子は、計画どおり彼女を驚かすことに失敗したためか、それとも隠れている最中断念してすごすごと出て来ようとしていたのか、お尻の方をこちらに向けている。君江は椅子を躯ごと後方へ押しやり、そのまま立っている場所も移動し、男の子が出やすいように隙間をつくってやった。
 耳元まで真っ赤に火照らせて、その子は踞んだ姿勢から顔を上げた。君江は、両手を膝に突いて屈み込み、相手にさも皮肉混じりの笑いを泛かべ言った。「残念でした。せっかくわからなかったのにね」
 相手は起き上がると顔をくしゃくしゃに崩し、それでも強気に頬っぺたを膨らませ、「なんだよ」と突っぱね、君江のお腹の辺りを思い切り叩いて友達のいる方へすたすた引き返して行った。
 子どもたちの発した声は、間もなく絶頂に達した。学校全体がこのときだけは柔軟な生き物のように肥大し、より活気を呈してくる。校舎内に残っている子も廊下や階段で暴れたり、遊戯け合ったりして、時々睥睨するように君江のクラスを見ながら通り過ぎていく。それらは、細かく聴き取ることはできなくとも、外側を冒う断続的な音だけは、彼女の耳の中にもはっきりと入ってくる。君江は、もう一度教室の中を見渡した。
 子どもたちがいる。
 顔の輪郭はぼやけ、いくつににも縺れたように集まり重なり合って見える。君江に向かって何か言っているようだが、上手く伝わって来ない。声を拾い上げていくまでに周りの喧噪に呑み込まれてしまうからだ。距離が遠すぎる。もっと近づかなければ。これ以上、ここに居つづけることは宥されない。誰かがそう、彼女に嗾ける。白っぽく輝いた矩形の建物の中で、いくつもの影がゆらゆらと揺れ揺らめいている。君江は、自分の瞳の奥に蒼白い陰影を持った人の顔をまんじりとせず見詰めていた。疲れた、自分自身を今にも失いそうな、そんな顔だ。しかし、その口元にはにこやかな微笑みが浮かんでいる。
 机に凭れた格好のまま、彼女は今まで感じていなかった強い衝動が少しずつ波のように込み上がってくるのを覚えていた。絶えずおとずれては避けることの出来ない眩暈の中にかろうじて屹立する一本の支柱のような衝動だ。これだけは、どうしても言っておきたい。血液の循環が止まり、皮膚が小さく萎み乾き果て凍えていく前に、顫える唇でどうしても、今、自分を失いかけているその顔に向かって訊ねておきたいのだ。ただ一つだけ。
 『教えるとは、どういうことなのか』
 心臓の鼓動が赫い管を生えそろえたその壁を重苦しく打ち叩く。それでも、尚、君江の中からその疑問は、去ろうとしない。胸の中にある、その重い固まりをできれば、一つ一つ取り出して解きほぐしていきたいのに、でも、できないのだ。
 『私は、なぜ、今ここにいるのだろう。そして、教師の道を選んだのか』
「教える」とは、どういうことなのかが君江には、わからないのだ。
 黒板の前に立つ。子どもたちの前に進み、話す、書く、説明する、笑う、叱る、呼ぶ、怒鳴る、呟く、泣く……。これらは、いったいなんなのだろう。
 職員室へ行く。何人もの大人がいて、「教師」としてそこにいる。 
 『私には、わからないことが、まだ多すぎる』
 君江は、心の中でそう呟くと机から離れ、待ちくたびれている子どもたちの中へと進んでいった。
 仄白い淡光のうねりがその後を追う。

コメントはまだありません

TrackBack URL

Leave a comment