「共」に「生」きる。 in 阿蘇

映画『キャプテン アブ・ラーイド』を見て。

深夜のNHK・BSで、『キャプテン アブ・ラーイド』という映画があっていました。ヨルダン映画です。まずは、アンマン市街を中心とする七つの丘に立ち現われる町の風景、ヘラクレス神殿跡、あるいは石積みの路地、軒を連ねる露店商と、喧噪のなかに無造作に流れるカーヌーンやトンバクといった中東の楽器の奏でる音楽など生活感がこれでもかと伝わってくるカメラワークは素晴らしいものでした。                                       しかし、それにもまして内容が、う~んと考えさせられるものでした。                                                 

主人公のアブ・ラーイドはアンマンの国際空港で清掃員として働いています。五年前に妻に先立たれ(のちにようやく授かった一人息子も幼い時、不慮の事故で亡くしたことが語られます)、読書を唯一の楽しみに初老の日々を過ごしています。物語は、そんな彼が、ある日、ゴミ箱からパイロットの帽子を拾って家に持ち帰ったことからはじまります。                                                   

帽子をかぶり帰宅した彼を見た近所の子が、アブ・ラーイドを本物の機長だと思い込むのです。                        いつもの遊び友達数人がやってきて、旅先の話をしてくれとせがまれた揚句、彼は、日ごろ本で読み知った外国の話をするようになり、彼らとの距離が一気に狭まってきます。                                                         しかし、近づくということは、それまで見えていなかったけっして豊かではない厳しい現実を背負わされている彼ら個々の暮らしが否応なく視界へと入ってくることも意味するのです。

たとえば、学校へいくことより道端での物売りを親から強いられる子がいます。                                   アブ・ラーイドは、品物のお菓子をすべて買い上げ、学校へ行くよう促しますが、その行為も付け焼刃にしかすぎません。親へ交渉へ出かけても父権の強い文化の中にあっては相手にもされません。                                           また、他の1人ムラードは父親の暴力に(家族ぐるみでのDV)に苦しんでいます。思春期を迎えようとする周りの子よりやや年長の彼は大人の偽善性を見抜き始める年頃で、アブ・ラーイドがにせ機長だと主張し、最後はなかなか信用しない子ども数人を父親の財布から盗んだお金で空港まで連れていき、床掃除をする現場まで見せ、納得させます。しかしそんな彼もその代償として父親からのさらなる折檻が待っているのですが……。 

そんな中、アブ・ラーイドは美しい女性パイロット、ヌールと知り合います。                                     彼女は男性中心のアラブ世界の中で「自立」をめざそうとする新しいタイプの女性で、周囲の反対を押し切り結婚をせず、キャリア・ウーマンの道を進んでいます。しかし30代を迎えた彼女への視線は厳しく、無神経な言葉についつい投げやりな言葉を返しながら折れそうな毎日を送っています。そんな中、清掃夫であってもひょうひょうと立ち居振る舞い、しかも物知りなアブ・ラーイドに惹かれ、彼へ自分の身上について相談をする関係にまでなるのです。  

「人のために生きるのは嫌。たった一度の人生を自分のために生きたい」という彼女に対して、彼は自分の息子や妻の死を語り、孤独の中で日々生きることの現実を話しながらも、だからこそ人生はかけがいのないものであり、己の信じる道へすすむことが大切であることを伝えます。

そんな彼は、少年ムラードが彼の機長の真実を暴く行為に対しても微笑みながら、「いいんだよ。君は悪くない」と一言言うだけで、けっしてせめたりはしません。それどころか、機長の帽子やヌールからもらったニューヨークのお土産を手渡し、さらにはあまりにひどい父親の暴力に我慢できなくなり、ヌールとともに彼ら家族を救おうと(実際、この行為が物語のクライマックスです)するのです。                                             

大人は、どこまで子どもを許せるのか。どこまで許容できるのか。今では失われてしまったようなこの行為というか、関係性の重要さ、そして、本当の勇気とはなにか。

アブ・ラーイドは最後は逆恨みをかい、逆上したムラードの父親に撲殺されます。しかしアブ・ラーイドは最後まで、日々の生活(とくに経済苦)に疲れ切り、酒浸りになっている父親に「君は病んでいるんだ。君の力になりたいんだ」と訴え、理性による解決を切々と説こうとするのです。 

深読みかもしれませんが、私はこの最後のシーンに、ヨルダン生まれのアメリカ育ちと言う新鋭監督のイスラエル勢力に対するアラブからのメッセージが込められているようにも思えました。

「いいんだよ。君は悪くない」                                                              

大人は自らの行為に倫理的な価値を付与したり、追い求める(その結果が「善」としての行為とも言えるのですが)あまり、その内奥の真実を見よう(暴こう)とする行為に対して「悪」のレッテッルを貼りたがります。 しかし本来その行為はまったく自然なもので、ただ事実を見ようという動機から発露されたものにすぎません。                                                      

そして子どもこそはこの行為の具現者です。大人はそんな子どもの行為を前に、怒ったり、泣いたり、叫んだりするのではなく、ただ微笑み、「いいんだよ。君は悪くない」そう返せる度量をわすれてしまっているのではないか。

「いいんだよ。君はわるくない、君はすべきことをしただけだよ。」「おじさんも、小さい時はそうだった」「嘘をついていたこと、それが事実さ」「どんな理由にせよ。わるいのはこっちだ」「いずれ君もわかるときがくるよ……」 そんな反復される言葉をふくみながら、微笑みをもって果たしてどれだけ子どもに対していけるのか。それができぬして、何をして数十年長く生きてきた「証」と言えるのか。

まだまだこの映画から考えたことはあったのですが、そんなことをちょっと思った次第です。                                                              

                      

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