「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『具体的な風』・その十

 
 孝は、延也の真後ろで試合を見学していた。一回戦で勝った興奮がまだ冷め切れていない。全身を流れる血の鼓動がいつもより早く鳴りつづけ、信じられない気持ちも半分胸のどこかで顔を見え隠れしている。
 孝は、今やった自分たちのバスケットの試合を振り返っていた。延也は、気のせいかよく自分にパスをしてくれたように思える。孝には、そのことが試合中で一番心に残っていることとしてある。眼前の背中を見ながら、やはりキャプテンは、延也しかいないとそう思う。 
 二年前、孝が四年生で今の学校へ転校して来たとき、担任は青野だった。そして同じクラスに延也がいた。その時も頂度今と同じように延也は孝の前に座り、その背中を見ていた。
 初めて見る延也の背中は、今とは違い孝にとってどこかよそよそしいものに感じられた。学級委員でもあったせいか、延也は孝に積極的に話し掛けてきたし、クラスの皆も喧く迎え入れてくれた。だが、孝の方が、そんな周囲の言葉や行動をそのまま素直に受け入れるだけの余裕がなかった。どこか取り繕ったわざとらしいものに思え、自分には受け入れ難いものとして映ってきた。
 転校して一週間が過ぎた頃、青野は孝の家を初めて訪問しにやって来た。彼はそれまで、大学卒業と同時に赴任した前の学校を四年勤め、若い独身の教師に有り勝ちな自身のようなものに満ちていた。若いというただそれだけを弾みにしながら躯ごとぶつかり一緒に勉強し遊んでいきさえすれば子どもたちは付いて来てくれる、そう信じていたのだ。
 孝は、そんな青野が好きになれなかった。青野は、何でもわかったような顔をした。孝の言うこと、孝の母親の言うことに、どんなときにでももっともらしく頷き、自分の意見を少しばかり言って帰って行った。でも結局は、それだけのことだった。それで全て終わってしまっていた。具体的にはっきりと痛むところはここだと声があるのなら叫びたい孝の軋む胸の中へ入っていき、痛むところはここかと気遣い癒してくれるだけの行動を示してはくれなかった。
 確かに青野自身はその頃、他のどの教師よりも早く学校へ行き、遅く自分のアパートへ帰る毎日を送っていた。部活でも暗くなるまで指導し、担当する児童会活動にも力を入れていた。学校を休んだ子には欠かさず連絡を取り、近くの子どもたちと連れ立って見舞いにも行った。そうやって気になる子がいれば帰りがてらその子の家へ立ち寄り、家庭での様子を訊いていた。しかし、それらはあくまでも学校と結び付いた義務感に彩られた充実だった。公教育という枠内での限られた、網状のフェンスによって敷き居られ守られた“良い教師”としての像でしかなかった。
 “良い教師”が“良い生徒”をつくり出す。“悪い教師”と“悪い生徒”をつくり出す。その中に青野もいた。
 学年末の近づいたある日のことだった。休み時間に学級委員である延也と女の子二人が職員室の青野のところへやって来て、四日後クラスで行うことになっているお別れ会のプログラムについて話し合いたいので次の特活の時間を使わせて欲しいと言って来たときがあった。青野は、その話は前々から訊いていたこともあり、彼らがどうしても自分たちでやりたいと言うのなら断る理由もないと承諾した。
 女の子は、いろいろな出し物や青野への贈物まで皆で考えているこをもったいぶったように話した後、「それでお願いなんだけど」と人なつっこそうに言った。青野は、職員室でそんな生徒の話をまんざら悪い気もせず訊きながら、女の子と延也の顔を交互に見較べていた。延也は、いつもの凛々しさはなく、緊張したように躯を硬くしゃちこばらせている。
 「先生にはプログラムを内緒にしておきたいから、教室には見に来ないで欲しいんです」
 二人の表情が急に畏まった。青野が今の話を訊いてどう思ったのか心配そうだった。女の子の方は、延也にも一言言って欲しいと肘で相手の脇腹の辺りをつっ突いていた。延也は、躯を捩らせしどろもどろといった様子だ。こんな延也を、青野は今までに見たことがなかった。青野も、ついつい緩んだ気持ちになり、この際快く彼らの案を承知してみることにした。ただし、贈物や飾り付けについては、一切店で買って来たものは使ったりせず、教室や学校にあるものだけを利用してやってみることを提言した。
 「はいはい、わかってます」女の子は、いかにもそういったことには慣れているといった調子で返事をし、延也を後ろに従えるようにして急ぎ足で出ていった。延也は、結局一言も喋らずに居たことになる。
 「先生のクラスでは、男の子は女の子にかたなしね」
 隣の席でお茶を飲んでいた三年担任の教師が言った。昨年の秋結婚したばかりで、この頃では気のせいか頬に独身の頃よりふっくらと肉が付き柔和に見える。産休や育児休暇について最近よく女の教師をつかまえ話し込んでいるところを見ると、案外おめでたなのかも知れない。夫も中学で体育の教師をやっているそうで典型的な教員夫婦だ。
 青野は、そんな相手につい冗談で返したくなり、「僕のクラスといわず、どこでだって男は女にかたなしでしょう」そう言った。相手は思い当たる節でもあるのか、含み笑いをし、「そうかなあ」と何度も小首を傾げた。
 それから青野にとって愉しい時が幾分か経過した。子どもたちが自分たちで話し合いを行い、工夫したアイディアを出し合っていることを想像することは担任としてはけっして気分の悪いものではなかった。彼は、クラス担任では唯一人職員室に残り、研究紀要に掲載される実践報告の資料まとめの仕事をしながら、適当なときを見計らいこっそり後ろから覗きに行ってやろうと考えていた。
 二十分ほどしてそろそろ区切りをつけ出掛けてみようかと思っていた矢先、クラスの男の子が一人真っ青な顔でやって来た。青野は職員室の隣の廊下に置いてある印刷機を動かしていた。
 「どうした」青野は、その子が近づくのを遠目がちに見ながら訊ねた。その子は、小柄な躯をいっときもじっとさせてはいられないとばかりに大きな身振りを交え、「タカシ君が樋江田さんにおこられて、家に帰るって下駄箱の方へ行きました」辺りに充分過ぎるくらい響く声で言った。樋江田とは、名前を京子といい、さっき延也と一緒に来ていた女子の学級委員のことである。
 青野は、やりかけの印刷もそのままにすぐにその子を連れ下駄箱へと急いだ。
 下駄箱には人影はなく、誰もいなかった。靴を調べると孝のはそのままそこに置かれてあった。青野は孝と他の生徒のことが気掛かりになり、三階の教室へ戻った。
 教室には、孝と延也、それに数人の男子生徒を除いた子どもたちが騒然としたように立ち尽くし、青野の来るのを待っていた。京子が、その中央にいた。青野が近づくと彼女は「木村君が全然話し合いに参加しないから」といつもの快活さはどこへ行ったのか、今にも泣き出しそうな顔で、それでも強気な性格は変わらず、一語一語渾さず言った。青野もその場で何があったのか詳しく訊こうとはせず、孝たちの居場所が知りたくてそのことを訊ねた。
 「延也君たちが下から一度は引っ張ってきたんだけど、その後またどこかえ行っちゃって」
 子どもたちの表情が絵に描いたように少しづつ不安になっていくのがわかった。
 青野は京子から目を離し、教室の中を見廻した。黒板には、京子の文字でお別れ会についての板書がされていた。だが、それも真ん中で途切れれたままの状態だった。
 青野が、思い余ったように後ろを振り返ろうとしたそのときだった。いなくなっていた男子生徒の中の一人が教室の戸口から突然視界に現れ叫んだ。
 「先生、大変だ。孝君が屋上から飛び降りて自殺しようとしている!」
 青野は、その一言を訊くと一瞬躯が顫え寒気が走るのを覚えたが、次の瞬間にはその子に確かめる間もなく教室を飛び出し、屋上へと向かっていた。屋上の鍵が壊れたまま開けられた状態になっていることは、昨日も職員会議で問題になったばかりだった。子どもたちが道端で拾ってきた子犬や小猫を給食の残り物で養いながらかなり大きくなるまで飼っていた事実もある。だが、青野には今更そんなことは頭の中にはなかった。  『自分の責任だ。今、問題が起これば、すべて俺の責任だ』
 彼は、階段を二段、三段と飛ぶように駆け上がりながら、そのことを胸奥で激しく吼していた。
 屋上には、たまたま偶然か春一番の強い南風が吹き荒れていた。子どもたち数人は、そんな風の中に曝されながら立っていた。孝の躯を延也と男子生徒の二人が必死の形相で掴まえ引き戻そうとしていた。孝は、白く塗装をされた鉄柱の柵を乗り越えようとそこから両手を離さず、肘を曲げた恰好で身構え、上躰を前へ前へ突き出し抵抗している。 青野は、駆け寄ると孝の躯を抱きしめた。孝が天に咆えるように喊んだ。
 「離せ。死ぬんだ!」孝の髪が青野の頬を嬲った。青野は、孝の肩先を握る手に力を入れた。
 吹き荒ぶ風の中、彼は孝に何度も詫びていた。声にならない声で。延也と他の子どもたちにも詫びた。
 クラスの子たち全員が、次々と教室から駆け上がって来た。たちまち屋上は、彼のクラスの子で一杯になった。女の生徒が何人か口元に手を当て泣きじゃくっていた。その中に京子もいた。 
 青野は、後ろ向きに叫んだ。
 「戻れ、教室に帰っていろ!」
 屋上が見える教室では、そのとき授業は一時中断され、教師が、そして幾人かの生徒が教師に叱られながらも窓越しに身を乗り出すようにして見上げていた。遥か斜め下の職員室の窓の向こう側にも、気づいてか気づかないでか校長と教頭の顔が小さく二つ並んで浮かんでいるのが青野にはわかった。

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