「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『具体的な風』・その十一

 

 延也と京子の進行でお別れ会の話し合いが始められてから、孝は退屈な気持ちになっていた。浮かれたように飾り付けやプログラムのことについて意見を出し合う皆の姿がとても自分には縁遠いことのように思われたからだ。どうして、そんなものをやる必要があるのか。三学期になって転校してきた孝にとっては、今のクラスはさして親しいものではなかった。それに五年生になったところでこの学校は一クラスしかないのだし、また同じ顔ぶれが集まるだけの話だ。孝は、前の晩母親と口ゲンカをし、思うように睡眠のとれなかった目をしょぼつかせ重く疲れたように感じる躯を持て余すかのように机の上に顔を載せたまま、俯した格好で下を向いていた。
 そんなとき、樋江田京子が孝を、突然、名指しで注意したのだった。何度呼んでも答えない孝に痺れを切らした京子は、とうとう孝の机のところまでやって来ると彼の座っている椅子を足で思い切り蹴飛ばした。
 「ちょっと、何してんのよ」
 孝は、眠たげに目を擦り、ぼんやりと顔を上げた。京子がいきり立った表情で横に立っていた。クラスの子全員が二人に注目した。
 「皆が話し合いしてるのに、あなただけこんなことしていいと思ってるの」
 京子は喋り出したらなかなか止まらない。勝ち気で気の強い性格であることは、孝もよく知っていた。それでも孝は黙ったまま何も言い返そうとはしなかった。そんな孝に京子は心底呆れたというように、
 「ほんとうに仕様がないわね」
 来たときと負けないくらい勢いよく皆の方を振り返り、大股で黒板の方へ戻って行った。
 孝の霞む視界の向こう側には、京子の肩越しに延也のいかにも真面目そうな顔が見え隠れしていた。一斉にまた元のように話を始めるクラスの生徒たちの姿もあった。
 誰だってあれこれ言いながら、新学年になることよりその前にやって来る春休みを楽しみにしているのに違いないのだ。
 孝の箱詰めの記憶がするすると糸に引かれていくように動き出していった。まだ、ここへ引っ越して来る以前、母親が看護婦をしながらアパート住まいをしていたときのことだ。既にそのとき父親とは離婚していて、孝が物心つく頃には二人きりの生活が始まっていた。
 中でも思い出すのは、日曜や夏休み、冬休みと言った学校のない休暇時期の風景である。いかに生活のためとはいえ、まだ幼かった孝を一人置いて仕事に行くわけにはいかなかった母親は、そこが実家の近くだったこともあり傍にいくつかあった親戚の家へ孝を預け、病院からの帰りがてら迎えに行くという毎日を送っていた。もちろん、夜勤のときは、孝も母親もそれぞれ泊まり込みということになる。それでも、長女でない母親にとって、実家は既に実兄が継いでおり、両親も他界してしまったその当時とあっては孝を簡単に預かってもらえるほど都合が良いというわけにはいかなかった。まして、各家庭には都合というものがある。結局、孝は形としては親戚の間を盥回しされる格好となり、特に長い休みの期間中は、そんな家と家とを行ったり来たりする日々が孝の意志とは拘りなく何度も繰り返されたのである。
 『家へ帰りたい』
 そんな記憶と経験が生々しい孝にとって、前夜の睡眠不足で神経が疲れ、過敏になっていたとしたら、ふとそんな思いが過ぎったのも当然だったのかも知れない。『今すぐ、家へ帰りたい』
 思いはたちまち増幅され、即座に行動へと移っていくことになる。
 孝は、咄嗟に自分の椅子から立ち上がっていた。目を丸くして驚く京子たちの顔がそこにはあった。「家へ帰る」一言だけぼそりとそう言い残し、ランドセルも持たずに飛び出すタカシの姿がその後に重なっていく。
 とは言っても、いざ勢い込んで下駄箱へは行ったものの、そのすぐ後に追いかけて来ていた延也たちに一旦は捕まえられ一度目は呆気なく階上へと連れ戻されてしまう。教室へ帰ってからしばらくは静まり返った態度でおとなしくなっていたかに思えた孝ではあったが、ほんの一瞬の隙を突いて今度は自分でも行き場のわからないままに教室を再び飛び出すと、廊下を転々と走り過ぎ後ろから付いて来ている延也たちを巻くようにして階段へ駆け上がり屋上目指し突き進んで行ったのである。
 『自分の帰る場所、自分の帰る場所……』
 彷徨った挙げ句、もしも孝が自分の帰り着く場所として最後の地に、屋上の白い鉄条のフェンスのその彼方に拡がる世界を知らぬ間に探し求めていたとしたら……。
 屋上の件があって数日の間に、青野は同じ夢を立てつづけに見た。
 それは、どれも深い森の中を一人で歩いている夢だった。
 確かに、夢として情景に現れるそのだいぶ以前からそれと同一の地面の上を歩きつづけているという感覚が躯のどこかに残っており、疲労のようなものも夢の中の「彼」の肉体の奥にはちゃんと存在しているのだが、一向に満足のいくだけ進んだという形跡がなく、その反面眼前の風景の方だけがどんどんと加速し、足元の景色を置き去りにするように移り変わって行っている。情景はけっして単調でも、まして平面というわけでもなく、ときによっては魚眼レンズを透かして視るように歪み、うねり狂う海面にも似た蠢きを持っているところもある。
 そんな忙しく廻る視界の渦の中で木洩れ日を探すことだけを「彼」はさっきから試みようとしているようだ。夢の中で湿気だけが高じていくように、だんだんと汗ばみ熱く火照る肌に覆い被さってくる樹影を払い除けるため、ゆっくりと足を移動させ水平の位置をとる「彼」の姿は、まさしく頭上を取り巻く扇形の雑木の中心を充める要だ。
 「彼」は見廻す。
 孝がいる。延也が、京子が、クラスの皆の顔が、木洩れ日の変わりに葉擦れの音をしのばせて梢の反対側、動く標的のように光を溶かしながら散らばっている。
 「彼」は、一つ一つの顔を目でたどると憂鬱げに唇を噛む。
 『一年生からやっていこう。もう一度一年生から……』
 そんなことを呟きながら、夢はいつもそこで途切れてしまう。
 次の学年度、青野は当初、子どもたちと一緒に持ち上がりでやることになっていた五年担任を外された。保護者の間にいつのまにか広がっていた屋上の件が問題となり、彼と学校側は一部の親たちに強い突き上げにあったのだ。
 青野自身、次の年はまた四年を受け持ち、本人の希望もあってその翌年、一年生を初めて担任することになったのである。
 低学年の現場から一つずつ掘り下げ歩いて行きたい。それは彼にとって、意識からより無意識の混沌とした子どもたちの棲む世界へ自己を滑り込ませていくために選んだきっかけのようなものであり、その頃の彼にとっては馴染み深かった、中、高学年といった近景からの逃避でもあり、小学校教員への数少ない残された執着のようなものでもあった。
 孝はその後、しばらくしてバスケット部へ入部し、青野はその過程を歩んだ。

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